さいごに映ったのは




※神話を元にしていますが、好きなように書いておりますので
実際の神話とは別物としてお読みください。

※人によっては苦手と感じる展開なのでご注意ください。



 06


 はじめにヤミーはその部屋に差しこむ光を遮断し窓という窓に板を打ち付け使えないようにした。外へ助けを求められないようにするためだった。次に、部屋の家具や道具を運び出した。妙なことをされて逃げ出されては困るからだった。そうして作りあげた檻のような部屋に彼女は毎日通い、嬉々として動けない彼の世話をしたのだった。
 もちろんヤマは何度も逃げ出そうと試みたが、彼を縛りつける縄は固く重く、いくら足掻いてもそこから逃げ出すことはできなかった。はじめのうちこそ諦めずに引きちぎろうとしたり使えそうなものをなんとか利用して縄を切ろうとしたりしていたが、どうしても自由にはなれず、次第に逃げ出そうともがくことを止めて何もかも諦めてしまったようだった。彼女の言いなりになって、ただじっとうずくまって日々を過ごすようになった。
 そうしてまた月日が経った。二人の間にはまた何人かの子供が生まれていた。
 ヤマの様子を一言で表すならば、人形という言葉が一番しっくりくる。心をなくし、その瞳にはもう何も映さなくなっていた。相変わらず食べ物はわずかしか受け付けず、ますますやつれ顔色は悪かった。
 けれどヤミーは抜け殻のような彼に毎日愛をささやいた。好き、ありがとう、愛してる、あなたがいないとだめなの、いつまでも一緒よ。彼に触れる指先から、口付けから、愛おしさが溢れていた。どこまでも透明で純粋で脆い想いだった。
 彼はよどんだ虚ろな目をしてそれを受け取る。果たして彼女の言葉は聞こえているのか、いないのか。彼女は何の反応も示さなくなった彼に、毎日飽きずに甲斐甲斐しく世話をして愛を伝えた。
 いろいろなものが壊れてしまっていることに、もしかしたら誰も気付いていなかったのかもしれない。





 ある日のことだった。
 真っ暗な牢獄の唯一の扉がおどおどと開き、一筋の光が差し込んだ。
「とうさま?」
 扉を開けたのは小さな少年だった。ヤマとヤミーによく似た顔をしている。言わずもがな、二人の長子だった。
「かあさまが、とうさまは病気で寝てるんだって言ってたの。うるさくしたらもっと身体をこわしちゃうから絶対入っちゃだめよって。でも、どうしてもおみまいして、とうさまに元気になってほしくって」
 慌てたように早口でそう言うと、ちょろちょろと部屋の中に入ってきて、ヤマのすぐそばに小さな花束を置いた。白、黄、桃と、小ぶりだがいろいろな色で賑やかなかわいらしい花だ。きっと彼のためにせっせと摘んできたのだろう。
「すごくきれいだから、これを見たらよくなるんじゃないかなって思って」
 しかし、ヤマは何も答えなかった。何を言っても無反応な父親に、少しだけ悲しそうな顔をして、「早く元気になってね、ぼくとうさまと遊びたいんだ」、そう言って扉の前まで戻った。部屋を出る前に、子供は不思議そうな顔をした。
「とうさまはどうしてゆるゆるの縄を足につけてるの?」
 言われてみれば、確かに右足の鎖はすっかり解けていた。あれほど固くきつく結ばれていたのに、長い月日に緩んでしまったのだろう。いつからそうなのかはわからない。それに気付くことさえできなくなっていた。
 彼の子供が出て行ってから、ヤマは無意識に小さな花束に手を伸ばす。なぜだかとても懐かしくて、泣きたい気持ちになった。なぜなのかは思い出せない。
 なんとなく立ち上がってみる。うまく身体を支えられずによろめいたが、それでも一歩踏み出した。右の足枷がするりと力なく滑り落ちる。そのまま、たった一つの扉を押し開けた。


 気付いたら外を歩いていた。力の入らない身体で、ふらつきながらただ歩いていると、目の前に大河が現れた。
 奥底の記憶がぼんやりと浮かび上がる。遠い昔のことだ。ヤミーとここに来たことがあるような気がする。だけどすっかり思い出せなくなっていた。あのころ、二人は一体どんなだっただろう。話した内容も、あのときの気持ちも、掠れて見えなくなっていた。
 そういえば、この川の向こうには何があるのだろう。行ったことがない未知の世界だ。
 少しだけ足を川に浸してみる。思ったより流れが激しく、水面に自分の姿は映らない。ただ影だけが揺れていた。
 このまま水に埋もれて息を止めてしまえば楽になるのではないかと、ふっとそんな考えが頭をよぎった。このまま生きている理由などあるだろうか。罪を犯したこの命に価値などあるのだろうか。あの子があんなになってしまったのも自分のせいだ。生き長らえて良いという許しなどあるものか。そうして一緒に、罪もしがらみも全てこの激流に流されてしまえばいいのだ。
 思考は完全に停止していた。何のためらいもなく、水中にその身を投げ込んだ。
 瞬間、視界の隅に何かが映った。長い黒髪を振り乱して、必死で走ってくるその子は紛れもなくヤミーだ。追いかけてきたのか。
「――ヤマ!」
 ヤマには、あの子が必死に彼の名前を呼んでいるのがわかった。
「待って、お願い、置いてかないで」
 息を切らしながら、涙で視界をぼやけさせて、それでもただ彼だけを見ていた。
「ひとりにしないで、兄様!」
 奥底からの彼女の叫びが抜け殻の彼へと届く。途端に、目が覚めたかのように視界が鮮やかになった。
 太陽の穏やかな日差しが降り注いで波がきらきらと光り、風は夏の匂いを運んでくる。空はびっくりするくらい青く澄んでいて、草木は若々しい緑色に包まれている。
 氷のような水の冷たさと重みがのしかかって、苦しくて息ができない。押し寄せる激流は決して彼に空気を与えようとはしなかった。そうして波がぶつかり合い、彼はあっという間に水面下へと引きずり込まれた。
 視界が一気に濁る。そんな中で、あの子の泣きそうな叫び声を聞いた。それはあまりに悲しくて痛ましくて、鈍っていた脳ががつんと揺さぶられ、心に深く鋭く刺さった。
 ――そうだ、あの子をひとりにはできない。
 ひとりになんてさせたらいけない。なんてばかなことをしたんだ。今すぐ戻って心配かけてごめんって謝ろう。それで、はじめからやり直せないかって話し合いをしよう。
 地上へ戻りたくて必死で水を掻き分ける。やわらかな水は、光に向かってもがいた指の間を虚しく通り抜けるだけだった。
 あの子の指が、囁きが、口付けが、彼を縛りつけて離さない。がんじがらめにされて身動きをとることができずに、彼の身体は深く暗い場所へとどんどん沈んでゆく。彼女の愛が重しとなって浮かぶことができない。
 宝石のように輝く水面に手を伸ばしても、もう届かなかった。決して光が差し込まない更なる深淵へと身体は落ち、意識は激流にのまれて碧落へと流されてゆく。
 暗転していく世界に、妹の笑顔がぼんやりと浮かんで消えていった。



12/07/21