それ
から




※神話を元にしていますが、好きなように書いておりますので
実際の神話とは別物としてお読みください。




 07



 夫の姿が波に飲まれて見えなくなると、彼女は川べりに力なく座り込みました。途方に暮れて、ただ茫然と激しい水流を見つめます。大切な人を連れていったこの水流が、憎くて憎くて仕方がありませんでした。
「あなたのいない世界で生きるなんて、私には耐えられない……」
 彼女は、彼の後を追おうと身を乗り出します。相変わらず水の勢いは激しく、近寄るなと警告しているようにも見えました。けれど彼女にそんなものは一つも見えていません。
「かあさま、まってよ、どこに行くの?」
 そのとき、後ろから彼女の息子の声が聞こえました。はっとして後ろを振り返ると、きょろきょろと必死に母の姿を探す子供の姿がありました。不安げで今にも泣き出しそうになっている幼い息子を見て、なぜだかますます涙が溢れました。
 子供はヤミーを見つけると全速力で駆けてきて、突進するみたいに母親に抱きつきました。彼女もそれを受け止めて抱き締め返します。
「こわかったよう。どこかにいっちゃうのかと思った。ぼくたち、みすてられちゃったのかと思った」
 もぬけのからとなった部屋を見つけた途端、顔色を変えて子供たちに構わず走ってきたのです。残された彼らはさぞ不安な思いをしたことでしょう。
 彼女にはある思いが胸の内に湧き上がるのを感じました。この子たちには自分がいなければならない。子供たちのために、自分は生きなければいけない。
 最愛の人を失った悲しみに涙を流しながら、忘れ形見を強く抱き締め、彼らのために生きようと心の中で固く誓ったのでした。


 その後、彼女は心に傷を残しつつも自分の子供たちを立派に育て上げます。そうして最期は大人になった彼らに見守られながら静かに息を引き取ったのでした。「これでようやくあの人のところへ行けるのね」と幸せそうに微笑んで。
 彼女が次に目覚めたのは真っ白な世界でした。見渡す限り真っ白で何もない世界。ここはどこかしらと首を傾げていたときでした。どこからか声が聞こえてきました。
「ようこそ、ヤミー」
 はっとして目を凝らすと、白い靄の奥から神々の姿が現れました。その先頭に立っていたのは彼女の父、太陽の神さまでした。
「ここはどこ?」
「ここはお前たちが暮らしていた地上より遥か天上。その生を全うし、魂だけになったお前を私たちが呼んだのだ。お前には天の国に住んでもらう。何かしら任せることもあるだろう」
 しかし、彼女はそんな話は少しも聞いていませんでした。
「そんなことより、ヤマはどこにいるの? 私より先にここへ来たのでしょう?」
 少しの沈黙の後、神さまは言いました。
「お前と会わせるわけにはいかないよ。お互いにとって必要なことだ。私たちはお前たちの幸せを願っている」
 遠回しな物言いに、ひっかかるものを感じて彼女は眉根を寄せました。
「私とヤマが一緒にいては幸せになれないというの」
 ヤミーは語気を荒げて突っかかりましたが、神々は意に介しません。
「その答えはお前たち自身が一番よく知っているじゃないか」
 それでも彼女は会わせてほしいと反抗して暴れるので神々もすっかり困り果ててしまいました。いくら説き伏せようとしても頑として意志を曲げようとしないヤミーに、苦しませるくらいならと、ついに神々は彼女からヤマに関する記憶を消してしまいました。
 彼女は、もうわがままを言って神々を困らせることはしませんでした。
 それから彼女は花が咲き乱れる美しい天の国に住まうようになりました。
 彼女は決してその国を出ることはできませんでしたが、静かな楽園で何一つ不自由なく平穏に暮らしました。彼女の中の彼は、手を伸ばしたぶんだけ霞んでしまう煙のように、確かにあったはずなのに目を覚ますと思い出せない夢のように、いなくなっていました。他の何よりも大切なものがあったなんて、どうして今の彼女に信じられるでしょう。
 楽園みたいなその国で、さまざまに咲き乱れる色鮮やかな花々を見つめて、ただ穏やかに微笑むのでした。


***


 彼は、深い暗闇の中、意識が戻りました。長い間眠っていたような、気を失っていたような、とにかくそんな感覚でした。辺り一面真っ暗で何も見えません。風も音もにおいも光も、何もありませんでした。何もない空間でぼんやりしているとじわじわと今際の様子が思い出され、心と体、両方の苦しさに気が狂いそうになっていたときでした。どこからか声が聞こえました。
「我が息子、ヤマよ」
「……父様」
 ただ天上から光を降らせ、見守ってきただけの父親でした。ですが、彼は溢れかえるまだ新鮮な感情を、縋る思いで吐き出しました。
「取り返しのつかないことをした。ただの、気の迷いだったんだ。どうか、わたくしを元の場所に戻していただけませんか」
「そんなことは不可能だ」
 神さまはぴしゃりと告げて、少々機嫌悪そうに続けました。
「自分で選んでおいて、ずいぶんと虫のいいことを言う。やり直せないことなどたくさんあるのだ。決断には責任を持て。……それにしても、まさか自ら命を投げようとは」
その言葉に何も言えずに、ヤマは足元を見つめました。そんな彼を気にせずに神さまは話を続けます。
「そこは人間が死んだ後の世界だ。私はそちらへ行くことはできない。しかし、これからお前の子供たちが大勢そちらの世界へ行くだろう。お前が人間の一番初めの死者であり彼らの父親だ。お前にその国を与えるから、好きなように治めるがよい」
 少しの間の後、彼は重たい口を開いてゆっくりと話始めました。
「……わたくしは、罪を犯しました。一つは、自らこの命を投げ捨てて、あの子をひとりきりにしてしまったこと。二つは、妹を正しく導けず関係を許してしまったこと。その重さは十分心得ております。だから、わたくしの子供たちすべてがその生を全うするのを見届けるまで、わたくしはここに留まり続けましょう。ときに導き、間違いがないよう。それがわたくしの償いであり責務だ」
「お前がそう思うならそうしたらいい」
「けれど、あなたも」
 彼は思わず声を大きくしました。
「……どうして、助けてくださらなかったのです」
 俯いていて表情は見えませんが、その声は震えていました。彼は、ただ見ていただけのあなたにとやかく言われたくはありません、という言葉をすんでのところで飲みこみました。せめて親なら、こうまでこじれる前に手を差し伸べてほしかったと、父親の存在を前に感じずにはいられませんでした。
 怒りを孕んだその言葉に、神さまが答えることはなく、まるでひとりごとみたいにぽつりと呟きました。
「私もよくわかった。神と人とでは考え方が異なるのだ。お前がどうしてそこまで思い悩むのか、私には理解できないよ」
 突き放すわけでも咎めているわけでもない、淡々とした口調でしたが、ヤマはその言葉に神々との隔たりを強く感じたのでした。
 このときはっと頭をよぎったものがありました。
「ひとつ教えてください。ヤミーはどうしたのです」
 彼女のことを尋ねると、少しだけ沈黙ができました。
「お前を失った悲しみをこらえつつも子供を育て上げて、しばらく前に天寿を全うした」
「それではあの子はもう死んでいるのですね。妹と会えませんか」
「何を言っている。お前がどうしてその身を投げることとなったかわかっているだろう。会わせることはできない」
 それがよくわかっていたからこそ、彼は唇を噛み、俯きました。しかしすぐさま顔を上げて必死に食い下がりました。
「けれど、もう一度初めからやり直せれば、今度こそ上手くいくはず」
「そんなことはもう無理だ。そもそも、お前は根本的なところがわかっていない。いくらお前がその気でも、もうヤミーはお前を兄として好いてはくれないだろう」
 それがあまりに的確な指摘だったために、ヤマは再び唇を噛み締めることとなったのでした。わかっていなかったわけではありません。ただ、信じたくなかっただけでした。
 そして、その後ヤマが何を言おうとも「会わせられない」の一点張りでした。せめて居場所だけでもと縋る思いで尋ねましたが、それも「教えられない」の一言でした。しばらくすると彼は口を閉ざしてしまいました。何を言っても無駄だと悟ったのでしょう。それでも、暗闇を睨みつけて真一文字に口を結んでいました。
「ほら、もうすぐやってくるぞ。お前の国の最初の来訪者だ」
 黒い靄が晴れるように、徐々に彼の国の姿が現れ始めました。崖のようになっている一本道を歩いてくる人影が遠くに見えます。いつの間にか父親の気配は消えていました。
 ヤマは自分のいる場所をぐるりと見渡すと、少しだけ目をつむりました。息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出します。ひんやりとした空気が全身を巡り、ようやくすとんと足が地面についたような気がしました。固い土は自分の居るべきところを、冷たい空気は自分のやるべきことを教えてくれているかのようでした。
 次に目を開けたときにはその瞳に毅然とした光を宿し、ヤマは遠くから近付いてくる自分の子供をしっかりと見据えたのでした。


(おわり)


12/07/22