深間に
溺れ




※神話を元にしていますが、好きなように書いておりますので
実際の神話とは別物としてお読みください。

※人によっては苦手と感じる展開なのでご注意ください。



 05


 二人の関係はがらりと変わった。
 ヤマは本当にこれでよかったのかと振り切れない迷いを引きずりながら幾度か彼女を抱いた。いずれ慣れるのだろうと楽観視していたときもあったけれど、いつまでたっても罪悪感は尾を引き、まとわりついて離れない暗闇のせいで彼はすっかり道を見失っていた。
 正直に言えば本心では受け入れきれないところがあったしそれを彼女に伝えようと何度も考えたが、嬉しそうな様子を見ていると何も言えなくなってしまうのだった。それに下手なことをしたら彼女が自傷に走るのではないかという不安と恐怖に、結局どうにもできずに求められるがままに彼女に応えたのだった。


 あるとき彼女は言った。
「ねえ、ヤマ。子供ができたの」
 幸せそうに微笑んで腹部を撫でる彼女とは対照的に、彼は全身の血が抜けるような感覚に襲われた。足元がおぼつかない。信じたくなかった。悪い夢のような気がした。彼女の度が過ぎた冗談なのだと思い込みたかった。
 けれどそれは嘘でも夢でもなく、じきにヤマとヤミーの間に子供が産まれた。
 ヤミーは優しくその子を腕に抱く。第三者から見れば、爽やかな日の光を浴びて子供をあやす彼女の様子は、夢でも見ているかのような美しい光景だった。
 しかし、ヤマの目には光など映りはしなかった。生まれたばかりであるのにどことなく二人の面影を忍ばせる赤子と対面すると、彼は激しい目眩と吐き気に襲われて、その場に立っていることさえままならなかった。しかしヤミーに心配をかけまいと遠のく意識の中で無理やり笑顔を作る。そうして気力だけで彼女の目が届かないところまで這い出ると、思い切り吐いた。胃の中身を全て出しても吐き気は収まらず尚も嘔吐を続けた。じわりと視界が霞み、喉はじりじりと胃酸で焼けるようだった。
 生まれた子を見て、彼は自分の行動が間違いであり、それが罪であったのだと瞬時に悟ったのだった。自分の罪が形を成して目の前に突き付けられたのである。
 あの子はかわいい妹で、それ以上にはなり得ない。兄妹で決して越えてはいけない一線だったのだ。
 浅はかな自分を恨んだ。どうしてあのとき受け入れてしまったのか。それはそうしなければあの子を失ってしまいそうだったから。何度も自分の中で繰り返された問答だ。他にどうしようもなかったのか。なかったはずだ。けれどそれでも、どんな結果になろうとも拒み諫めるべきだったのではないか。例え、あの子を失うことになっても――。
 彼は、もがけばもがくほど身動きが取れなくなっていく底の知れない泥沼の深さに、今更ながらひどい絶望を感じていたのだった。


 自責の念と罪の意識に追い立てられて、彼は次第に笑顔を失っていった。食べても吐いてしまうため食は細くなり、段々と痩せ細っていく。そしていつも暗く何か思いつめたような顔をしているようになった。月日が経つにつれて、彼が背負い込んだものは、いつかその重みに彼自身が潰されてしまいそうなほどに膨らみ重くなっていく。彼の中で、いろいろなものが限界まで来ていた。
 うっすらと太陽の光が差し込む部屋で、ヤミーは子供をあやしていた。木の皮で編まれたゆりかごの中で幼子は笑っている。
 視界の隅でぼんやりとその様子を眺めていたヤマだったが、静かに立ち上がり戸口まで歩くと、彼女の方を向いてしっかりと見据えた。
「ごめん。おれはここを出ていく」
 出てきた声は思っていた以上にか細くて弱々しかった。そんな彼の突然の宣言にヤミーは目を丸くした。動揺を隠せないようだった。
「出ていくって、急に、そんな、どうして」
「ごめん。それじゃあ、元気で」
 そのまま背を向けて去ろうとする彼に、彼女は待って、と立ち上がって走り寄り、彼の手をつかんだ。消えてしまうのを恐れているみたいに強く引っ張って引き止めた。
「お願い、どこにも行かないで。あなたがいなかったら、私……」
 ヤミーは後ろから彼の身体に腕を回し、その背に額を押しつけた。ぎゅっと腕に力が籠る。彼女の全てから悲しみや焦燥が溢れていた。
「だって、どうしたらいいのか、わからない」
 彼は、何もかも失ってしまった、そんな呆けた様子でただ一言こぼした。
「どうもしなくていいの。ヤマはただ一緒にいてくれるだけでいいの。私と、あの子と」
「だけどこんなのおかしいじゃないか」
 彼は自分を引き止めようとするその腕を引き剥がすと再び彼女に向き直った。ひとりで後悔と罪悪感に悩まされ続け、溜めこんできたどす黒い感情を抑えることができなかった。全てがどうでもよくなった。自暴自棄に吐き捨てる。
「やっぱりおれが間違っていた。きみのこと受け入れてはいけなかったんだ」
「やめて! もう言わないで」
 ヤミーが真っ青な顔で泣き叫び懇願したが、彼はそれを遮って声を荒げる。彼女の声などまるで耳に入っていないようだった。
「普通じゃない。狂ってるよ。おれもきみも、あの子も」
 血の気のない顔でそう言い放ったヤマに、ヤミーもヒステリックに食ってかかった。涙が飛び散り衣服を濡らす。
「ばか言わないで、狂ってなんかない。生き物が子供を作るのは当たり前のことじゃない」
「だけどきみは生き物たちが自分のきょうだいと子供を作っているのを見たことがあるか? ないだろ? 不自然なんだよ、あってはならないんだ。おれがしっかりしていなかったばっかりに、こんな……」
 燃え盛る炎に焼かれているかのようだった。苦しそうに言葉を絞り出す。
 ヤミーは、彼が抱えていた苦悩をぶつけられて一層涙を流した。彼に縋りついたかと思うとずるずると力が抜けていき、そのまま泣き崩れてしまった。床に伏してみっともなく声を上げ、泣き続ける。その姿は惨めで哀れで、助けを求めているようにも見えた。彼女はとめどなく押し寄せる悲しみの波に飲まれ、もう立ち上がることはできなかった。
 ヤマはどうすることもできずにただ呆然と立ち尽くしていた。時間を操って、昔に戻れたらいいのに。全ての気力という気力が抜けてそんなことを思った。もちろんそんな夢みたいな話、不可能だとわかっている。
「……どこか遠くへ行きたい」
 何の気なしにぽろりと口から出てきた言葉だった。
 彼女ははっとして顔を上げた。涙で真っ赤になった瞳で、数瞬の間彼を見つめた。かと思うと慌ただしく立ち上がり、いろいろなものに躓きつつも部屋の奥から何かを取りだしてきた。決して明るくはない部屋のせいで、彼女が近くに来るまでそれが何なのかわからなかった。もしわかっていたら、逃げるなり説得するなりできたはずである。
 彼女がその手に持っていたのは獣を捕まえるための太くて固い縄だった。ぞっと背筋が凍り、逃げ出そうとするも間に合わなかった。渾身の力で押し倒され組み敷かれる。押し返そうとしても、しばらくの間まともに物を食べていない身体では全く力が入らずに女一人の力にさえ敵わない。突然のことに意識を混濁させていると、あっという間に右足に太い縄が巻かれ、反対側の先端は部屋の柱へと括りつけられてしまった。
 呆然と上半身を起こす。視線の先の彼女は、目が合うとにっこり笑った。感情などないガラスの作り物みたいな笑顔に、言い知れぬ不気味さを感じて思わず後ずさったが、右足に縛られた縄が彼をしっかりと捕まえていた。
「ヤミー」
 震える声で名前を呼ぶと、彼女は彼のそばまでやってきて、優しく抱き締め口付けた。
「どこにも行かないで」
 そう言う彼女はどこか虚ろで、ヤマは内心必死で彼女を説き伏せようとした。
「ヤミー、どこにも行かないから、これをほどいておくれ」
「嫌よ。そんなこと言って、私が言うことを聞いたら私を置いてどこかへ行ってしまうのでしょう?」
「今までおれがきみとの約束を破ったことがあったかい」
「これからもそうだとは言えないじゃない」
 彼女はヤマが何を言っても聞き入れようとはしなかった。必死に訴えても語気を強めても何の意味もない。言葉が届かないという絶望に頭を抱えた。
 枷をはめられ部屋に縛られた彼は、おれがしっかりしていたら、とますます自分を責めるのだった。
 水鏡に自分を映してみても、見つめ返してくれる姿はもういない。滴り落ちる涙に波立つ水面は歪んだ影を映すだけ。



12/07/09