手離せ
ない
もの




※神話を元にしていますが、好きなように書いておりますので
実際の神話とは別物としてお読みください。

※人によっては苦手と感じる展開なのでご注意ください。



 04


 あれから、ヤマは何事もなかったかのようにヤミーと接していた。彼女の告白がなかったかのように普段通りに振舞っていたのだった。ヤミーは仕方がないと頭では分かっていても、彼に恋焦がれる気持ちは増すばかりで、絶えない熱情と想い人が振り向いてくれない切なさにいつも苦しめられていた。
 しかし、彼女を苦しめたのはそれだけではなかった。
 確かに表面上は今まで通りの兄だったが、彼女に対する表情が今までとはどこかが違った。それを心の奥で何重にも鍵をかけ決して見せまいとしているが、生まれてからこのかた離れたことのない半身のような双子の妹にそれが見破られないわけがなかった。
 ヤマがヤミーの中の何かを怖がっているようだと彼女は気付いていた。いつぞや不意に彼女が現れたときに一瞬だけ彼の顔に浮かんだ怯えと憂いを、彼女は見逃さなかったのだ。彼女に対して一度も見せたことのないものだった。今までそんな風に彼女を見たことなどなかったのに。もちろんすぐにそれは覆い隠されていつもの優しい笑顔に戻ったのだが、それから彼女は、彼の笑顔が本心からのものなのか、信じることができなくなってしまった。
 もう昔のようには戻れないのだと二人とも頭のどこかで感じていた。お互いがお互いに見えない壁を感じていた。それでもヤマはヤミーを妹として扱い続けたし、ヤミーもヤマを兄として慕っていた。
 ただ辛いだけの空白の日々が過ぎていく。
 ヤミーは自分の気持ちに正直になればなるほど彼が遠ざかってしまうとわかっていた。正直になって嫌われてしまうなら、自分に嘘を吐いてでも隣にいたい。けれどそうして仮面をかぶっても結局のところ距離は遠くなるばかり。そればかりかいくら自分を誤魔化そうとも恋焦がれる気持ちはどんどん膨らんで、自身の心さえも燃やし尽くしてしまいそうだった。どうにか彼と結ばれたいが、想いを返してくれることなど到底考えられず、燃え上がるこの気持ちをどうしたらよいのかわからずに持て余していた。どうにもならない狭い部屋の中で、もがいで苦しんで、息などできやしない。
 ヤマは自分も彼女も同じ気持ちを共有しているものだと思い込んでいたから、思いを伝えられてひどく驚いた。妹と結ばれるなんて絶対にあってはならない。あの子はかわいい私の妹なのだと強く自分に言い聞かせる。あの子のことは妹として愛しているが、決してそれ以上にはなり得ない。あのことは忘れようと努めたが、彼女がいつか自分を求めてくるのではないのかと奥底で感じる恐怖に打ち勝てないでいた。だから彼女が時折見せるうっとりとした艶っぽい目線に、やめてくれと内心では悲痛なほどに叫んでいた。
 二人で幸せに暮らしているだけでよかった。無茶なことなど願っていない。ささやかな望みなのにどうしてこのような痛みを与えられるのだろう。どうして叶えさせてくれないのだろう。ただただ天を恨むばかりだった。

 

 こんな濁り切って何もかもが見えないような日々が続いた、ある日のことだった。ヤミーの姿がどこにも見当たらず、不思議に思ったヤマは御殿中を探して回っていた。御殿といってもそこまで広い造りではなく、彼は間もなくヤミーを見つけることができた。彼女は光の届かない奥の小さな部屋に、明かりもつけずに座り込んでいた。
 ヤマが首を捻りつつも声をかけながら部屋へ入ると、小さく肩を震わせ、恐る恐る彼の方へ顔を向ける。目が赤く頬には涙の跡が見える。
 ヤマは慌てて駆け寄りしゃがみこんだ。彼女の手元に刃物が握られているのが視界の隅に見え、嫌な不安を覚えた。しかし何があったのかと尋ねるよりも先に、彼女の方が口を開いたのだった。
「もういやだよ……」
 魂が抜けてしまったみたいに弱々しい声だった。苦しくて息ができない、とヤミーは力なく涙を流した。
 何のことか見当がつかず、しかし尋常ではないその様子に何も言うことができずに、ヤマはただ呆然と彼女を見つめた。
「あなたがどんどん離れていくのが怖い。そんな怯えた目で私を見ないでよ……。これなら、一緒にいたほうが辛いわ」
 ヤマは、彼女が何を言いたいのか、どうして泣いているのかがわかってしまった。自分の中の薄暗いところが彼女にはしっかり見えていたのだと気がついて、重たいもので頭を強く殴られた気分だった。
 彼女は涙で濡れた顔を上げて一途にただ真っ直ぐ、青白い顔ですくんでいるヤマを見つめる。
「どうして私を女として愛してくれないの。どうしてあなたを恋い慕ってはいけないの」
 涙腺が壊れたみたいにとめどなく涙は頬を伝う。ぽた、ぽたと暗闇に水たまりができる。ヤマはいろいろなものが喉につっかえて、言葉なくただかさを増し続ける透明な液体を見つめていた。
「あなたに嫌われるくらいなら、あなたにそんな怯えた目で見られるなら、あなたが愛してくれないのなら、死んだほうがまし」
 涙をぼろぼろと零しながら焦点の合わない顔で微笑んだ。美しいがぞっとするような笑顔だった。ヤミーは握りしめていた刃物を自分の喉元に振り下ろす。ヤマはさっと全身の血の気が引いたのを感じた。
「やめろ!」
 思わずそう叫んで、彼女の腕をすんでのところで取り押さえた。心臓が激しく鼓動を打ち、目の前がくらむ。
「お願いよ、離して。離して」
 尚も涙を流してもがく彼女に、彼は後悔と憤りと絶望と無力感と、自分の中で渦巻くありとあらゆる感情を思いのままに乗せて彼女を強く強く抱き締めた。
「ごめん。ごめんよ、ヤミー」
 感情の激流の中でなんとかそれだけ絞り出した。掠れていて、今にも泣き出しそうな低くて悲しい声だった。かたんと彼女の手中の刃物が落ちる音がした。
「きみがそんなに追い詰められていたなんて気付かなかった。頼むから死ぬなんて言わないで」
 両肩をつかんだまま身体を離し、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて願った。細くて冷たい身体だった。
 しばらくの間二人は何も言わず、重く長い沈黙がのしかかる。それを先に破ったのはヤミーだった。彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「それなら私を愛して」
 彼女の真剣な、熱を帯びた眼差しに言葉が詰まる。理性が彼を引き止めた。本当にこれでいいのだろうか。歩んではいけない道へ踏み外そうとしているのではないだろうか。
 迷い、視線を逸らすと先ほど彼女が持っていた刃物が視界に入った。重々しく忌まわしい陰がうずくまってじっとこちらを監視している。拒んでしまえば、今度こそ彼女はその命を絶つだろう。
 生まれてから今までずっと二人で生きてきた。いつでも隣には彼女がいて、それが当たり前だった。ひとりの生き方なんてわからない。たとえ間違いであっても、それでも愛する妹と一緒にいたいのならば、選ぶ道はひとつしか残されていないのではないだろうか。
「……きみを失うくらいなら」
 ――きみがいない世界をひとりで生きるくらいなら、きみの想いに応えよう。その茨の険しさも泥沼の深さも想像はつかないけれど。
 その表情に薄暗いものをはらませ、彼は彼女の柔らかな唇に深く口付けを落とした。指を絡ませ肌を重ねて、ひとつ失い、またひとつこぼれ落ちる。ついには欠けてしまったそれはもう元には戻せない。
 太陽の光が届かない薄暗い部屋の奥のことだった。



12/06/28