#07 ベラノの占い師


 

 

 翌日の夕方。ウィルとセレンは徐々に薄暗くなってきた森の小道を歩いていた。草木は落日の余映にほんのりと照らされて、淡く浮かび上がっていた。そうしてじっと、静かに下りてくる夜を待っている。
 例の占い師は、ベラノの町はずれの森に住んでいる。森といっても奥深くには入らず、ある程度は楽に行き来できるくらいの場所だ。ただ、小道は木々に囲まれて、その枝葉はここから出すものかと言わんばかりに空を覆い隠している。獣がどこからか現れてもおかしくない道だ。
 ウィルは周囲の様子に気を配りつつ、セレンの手をひいて歩く。引っ張ってやらねば歩くことさえ忘れて森に置き去りにしてしまうような気がしたからだ。そうやって暗くなった森をしばらく歩いていくと一軒の家が見えた。
 それは小道から開けた場所にぽつんと建っていた。この周辺だけは木々も数を減らし、なんとか枝の隙間から空が見える。家の屋根や壁にはツタが不気味に這っている。一階建てで決して大きくはないが、孤独に栄光あれとでも言うような堂々とした佇まいだった。
 そのまま扉を押し開けると、ガランと扉にぶらさがっているベルがつまらなさそうに音を鳴らす。一歩踏み込めばむせかえるような独特の甘い香りが鼻をつき、奥からはほのかにピンク色をした煙が漂ってきている。
「はァい、いらっしゃい」
 家の奥から気だるそうな女性の声が聞こえた。あらゆるところにエキゾチックで刺激的な色をした布が垂れ下がっていて視界を邪魔し、声の主は見えない。
 部屋の様子は、一言で表すならば『混沌としている』。幾重に張られた紐には無造作だが視界を奪うように布がかけられ、迷路のような空間ができあがっている。また、天井からは糸が何十本も集まってできたカーテンが垂れ下がっている。一本一本の糸には薄煙の中で七色に反射するガラス玉がたくさん実って、揺れるたびにきらきらと輝いていた。さらに家の中だと言うのに植物のツタが壁を這い、深緑の葉っぱを茂らせている。壁には立派な角を持った鹿の頭の剥製や、不気味な仮面、色鮮やかな鳥の羽根がついた首飾りなどが飾られ混沌を極める。壁から視線を落とすと木製の棚が目に入った。本棚の上にも奇妙な人型の置物や、黒い何かが詰まったガラス瓶、色つき水が入ったフラスコなど、表現しきれないくらいのたくさんの珍品が並んでいる。
 ベラノの占い師の家、そこは雑多で乱雑としている異空間だった。まるで世界中の秘境を一か所に凝縮したみたいな。
 しかしウィルは個性的な部屋の内装には目もくれず、少女の手をひいて奥へと進む。二人は布で遮られてできた道を歩いていく。最後に金と赤の糸で刺繍された薄地のカーテンをくぐると、ますます濃厚な煙に出迎えられた。香でも焚いているらしい。奥を見やると、小さなテーブルの近くの派手な模様をしたふかふかのソファに女性が一人、だらしなく横になっていた。
 その女性は艶のある長い黒髪を後ろに結いあげ、頭にはヴェールを被っている。町ではあまり見かけない異国のゆるやかな服をまとっていた。首飾り、腕輪、耳飾りなど金銀宝石でできたアクセサリーをいたるところに身につけ、眩しいくらいだ。彼女の黒い瞳が青年の姿をとらえると、それは興味深そうに煌めいた。
「……おやァ、見たことのある顔じゃないの」
 彼女、エルミラは知る人ぞ知るこの町で一番の占い師である。変わり者で面倒くさがりな性格で、人が大勢やってくるのは疎ましいらしくこうして町はずれで煙管をふかしているのだ。だがその腕前は本物だ。彼女のような腕のいい占い師がベラノの町はずれにいるということを、多くの人は知らないだろう。しかし、こうしてウィルたちのようにどこかで噂を嗅ぎつけてやってくる者たちはいるものだ。そういう者たちは大概ワケありだとか悪党だとか、ろくでもない連中が多い。彼女はこうしたワケあり顧客から大金を巻き上げて悠々と暮らしているのである。
「お兄さん、魔法は解けたかい」
「……まだだ」
 嫌そうな顔をしたウィルを見て、占い師はからからと笑って煙管を吸った。彼は非難めいた目つきで彼女を睨んだが、それを気にする様子は全くない。
 ウィルは、かつてこの変わり者の占い師のところを訪れたことがあった。もちろん変身の呪いを解くためだったが、才のある彼女でさえ呪いを解く方法はわからないようだった。
「そうカッカしなさるな。森の魔女の呪いなんてそう簡単にゃ解けないよお」
 仏頂面になった青年をおもしろそうに眺めたあと、彼女の視線は後ろに隠れるように立っているセレンへと移った。
「それで、今回はその女の子かい。つくづく面倒事が好きなんだねえ。二回目なんだからサービスはなしよ」
「わかってる」
 ウィルはそういうと胸ポケットから手のひらに収まるくらいの麻袋を取り出して彼女の前に置いた。ことんと硬いもの同士がぶつかる音がする。
「東洋の指輪だ」
 エルミラは麻袋を手に取り中身を覗き込むと、にやりと笑った。すると機嫌が良くなったのか寝そべっていた身体を起こし、彼らに向かって座りなおした。
「いいわよ。で、何が知りたいのかしら」
「セレン――この子の名前と、生まれと、とにかくわかること全部」
「はいはい。そこの少女、こっちに来てそこに座って」
 エルミラはセレンを正面に座らせると、「イッサ」と誰かの名前を呼んで手を叩いた。
 すると、呼びかけに応えて部屋の奥から幼い少年が姿を現した。髪も目も肌も、全体的に色素が薄く、どこか儚げな印象を受ける。少年は布と共に大きな水晶玉をうやうやしく両手に持って歩いてきて、静々とエルミラの前にある台座に乗せ、礼儀正しく二人に礼をすると奥へと戻っていった。
「さあ、始めましょう」
 占い師は半透明な水晶玉に両手をかざした。そして水晶玉越しに、じっと座っている少女を見る。こちらからしてみると光ったり色が変わったりなど変化は別段見られないが、いつも彼女は水晶玉を通して相手を見るだけでその人のことが何でもわかってしまう。名前、出身地、誕生日、家族の数、身分――さすがに考えていることはわからないようだが――など、こうした客観的事実をすぐに見抜いて含み笑う。きっと水晶玉の奥に見えているものが他の人とは違うのだろう。そうして手に入れた情報を元に相手の未来や運命を占うのが彼女の最も得意とすることだった。
 エルミラはしばらくの間、少女が映り込んだ水晶玉を見つめていた。黙ったまま眉間にしわを寄せた彼女は、戸惑いの声を上げた。
「……やだわ、何も見えない」
 いつもの不敵な笑みとは正反対に、彼女は顔をしかめている。
「まるで何かに邪魔されてるみたい。黒い霧に包まれてる感じ」
「何でもいいんだ。わかることはないのか?」
 予想していなかった反応に内心焦りながらもそう尋ねると、エルミラは険しい顔をして水晶越しに彼女にしか見えてない何かを睨み付けた。一筋汗が滴る。
「呪い……視界が悪いのは強力な呪いのせいだ……。そして二つの呪いが絡み合っている……忘却と変身……。靄の奥から明かりが見える……これは完全ではない……」
 そこまで言うと息をついて力を抜いた。どうやらこれ以上は無理だと判断したらしい。
「彼女、二つの呪いをかけられている。一つは変身の呪い。姿を魚に変えてしまう魔法。もう一つは忘却の呪い。記憶はもちろん、言葉も声も感情さえも忘れてしまう強力な魔法。けれどどちらも不完全ね。ほつれが見える」
 彼女が言うにはこうだ。
 少女がかけられている一つ目の呪いは完全に人から魚に変わってしまう類のものだ。ウィルのように特定の時間姿を変えさせるものではなくて、一度魚になってしまったら二度と戻らないような強力な呪い。しかし彼女が人の姿をしているのはかけられた呪いが不完全だったからだ。
 そして二つ目の呪いは忘却の呪い。これも一度かけられたら一生抜け殻のように過ごすしかなくなるような強力な種類だという。しかしやはりこちらも不完全で、ほつれがある、と彼女は言う。
「ほつれって?」
「他に言い方が思いつかないね。つまりさ、声を出すとか、表情が変わるとか、何かなかった?」
 ウィルは考える仕草をした。そういえば今までに二回、笑ったときがあった。あれはみんなで宴会をしていたときと、リリィと竪琴を鳴らして遊んでいたときだった。
「……笑ったことなら」
「それだ。そんなら生活の中であんたたちが教えてやるとか、自然と気付くとかで忘却の呪いも少しずつほどけてきて全部思い出せるようになるんじゃないかしら」
「そんなのでいいのか」
 意外なほどあっさりした解き方に彼は目を丸くした。自分は心底苦労しているのに、とでも言いたげだ。
「強力な魔法にはリスクが伴うものだから。効果が大きいぶん、穴も大きい。つまり、普通に生活してたらそのうち思い出すんじゃないかね」
 ウィルはいくぶん理解しかねるといった表情をしていたが、彼も魔法といった類には詳しくない。そういうものかと納得することにしたようだ。
「それと、変身の呪いだけどねえ」
 占い師はニヤニヤと楽しそうに笑っている。
「これを解くのは愛する人からのキスって、昔っから決まってるよお。まあおとぎ話だけどね」
「……真面目に教えてくれ」
「あら、間違っちゃいないのよ。呪いを解くには愛情が必要なのさ。その形が何であれ、ね。あんたは何で解けないのかねえ。実は嫌われてるんじゃないのかい?」
「それで、誰の魔法かはわからないのか」
「無理よう、そんなの。そもそも魔法使いなんていたるところで身を隠してるじゃない。実際魔法使いが何人いるのかもわからないのに」
「手がかりなしか……」
 ため息をつくウィルに、エルミラは「まあがんばりなさい」と無責任に笑った。しかし、せっかくここまで来たのにこの情報だけでは帰れない。
「本当にこれ以上は無理なのか? せめて出身地のアタリだけでも」
「無理だって言ってるでしょ。もう少し呪いが解けたくらいならわかることもあるかもしれないけど今のまんまじゃダメね」
 ぴしゃりと断言され言葉に詰まる。てっきり今回のことでだいたい解決に向かうだろうと踏んでいただけに、全く情報を得られなかったのには困った。いや、彼女が呪いにかけられているということはわかったが。仲間たちは魚がどうとか人じゃないとか噂していたが、やっぱりセレンは魔法をかけられただけの人間の女の子だった。
 しかし呪いとはどういうことだろう。人から恨みを買うかよほど妙なことをしない限り、普通は呪いなどというものとは無縁で生きる。ウィルはそれだけのことをしでかしたと自覚しているが、この幼い少女は?
 実は、ウィルは一つの仮説を思いついていた。
 セレンはもしかして、島国リーチェの王族ではないか。彼には、初めてセレンを見たときから気にかかっていることがあった。あの首飾りだ。クジラの模様が描かれた精巧な金の首飾り。クジラは、豊かな海に住み知性と温厚さを持つものとして、リーチェのシンボルとされている生き物だ。他の船員は誰一人気付いていなかったようだが、あれは、リーチェ王国で王族のみが伝え持つという装飾品ではなかったか。しかし彼も話を聞くだけで本物を見たことがなかったために断定はできず、類似品や紛い物であるという可能性も考えられた。確証などどこにもない。だが、ベラノに来てから彼の中で疑惑の色はどんどん濃くなっていた。
 あやふやな情報を与えて混乱させるよりは、と閉口してきたが、もし予想通りなら大変な事件だ。ただ、証拠はどこにもなく、やはりあくまでも想像の域を出ない話。みんなの前で言うつもりにはなれず、ずっと心の中にしまっていたことだった。
 もし自分の予想が正しかったとして、こんな小さな女の子が、王族として薄汚い世の中の駆け引きなんてこれっぽっちも知らないような誠実で正しい生活を送ってきたはずの女の子が、強力な呪いをかけられる事態とは一体どういうことなのだろうか。ウィルの予想が外れてセレンがただの町娘だったとしても疑問は変わらない。かわいらしい顔をして、実は人に憎まれるようなあくどい性格をしていたのだろうか。はたまた、どうしようもない事情を抱えて、何かを得るためにこの呪いを受けたのだろうか。謎は深まっていくばかりだ。
 彼の中で、困ったと頭を抱えたくなる気持ちと同時に、彼女に何があったのか、彼女は一体何なのか、という興味が育っていた。どうせなら最後まで見届けてみたい。この不思議な出会いを途中で放り投げてやりたくない。
 少女を海で拾ってからここまでで、ようやくスタート地点に立てたくらいの状況だ。彼女との旅は、きっと一筋縄ではいかないだろう。しかしハードルは高ければ高いほど、燃えてくるものである。
「……これ以上わからないなら仕方ない。それじゃあ、そろそろ行くかな」
 それを聞いて、占い師は目をぱちくりさせた。
「何、これで帰るの? 未来とか知りたくない?」
「そんなもの聞いたらつまんないだろ」
「あんた、変わってるねえ」
 彼女は珍しいものを見る顔つきでつぶやく。ウィルとしてはかなり心外だ。エルミラと彼女の家ほど変わってるものなんて他にないだろうに。
 それから彼女はそういえば気になってたんだけど、と続けた。
「なんでこの子をセレンって呼んでるの?」
「それは……はじめて出会ったとき、人魚かと思ったから」
「はあ?」
「見間違えたんだ。人魚――セイレーンかと思ったんだよ。だから、なんとなく」
「ふうん。それにしてもよくそんな不吉なものから名前を取ったもんだよ。あんた変わり者だねえ。船乗りがセイレーンを恐れないわけないのに。セイレーンってあれだろ、その美貌と歌声で男を誘惑して海中に引きずり込むとか船を沈めるとかっていう海の魔物」
「でも美人だろ」
 エルミラは呆れてウィルを眺めた。
「あんた、ばかだね」
「ばかで結構。そもそもそんな深く考えちゃいねーよ」
「ああそう」
 エルミラは肩肘をついて煙管を吸い、ぷかと煙を吐き出した。
「そうだ、お代が余っちゃうから、スペシャルプレゼントしちゃおうかな。ああ、あんたのことは言わないさ」
「ちょっと待て、何も見えなかったんじゃないのか?」
「別に情報がなくたって、顔見りゃなんとなくわかるのよ。売りもんにゃならないくらい雑でテキトーだけどね」
 そう言うと彼女はウィルの返答を待たずに話し始める。
「この子ね、あんたたちと一緒にいたらきっと大切なものを見つけるよ。……でもね、知ってた? 昔からさ、人魚が出てくるおとぎ話ってハッピーエンドにはならないんだよ」
 えらく比喩的で抽象的なスペシャルプレゼントだ。だがそれを語る様子はどこか楽しげに見える。
「でも、おとぎ話だろ」
 ウィルはどうして気にする必要がある、とどうでもよさそうに肩をすくめる。
「ええ、おとぎ話ね」
 エルミラは意味深な含み笑いで頬を緩ませた。未知を閉じ込めた瞳が夜空のようにきらと光って彼を見上げる。
「未来は変えられるわ」
「それがどうした」
 対してウィルは当たり前だという顔で彼女を見る。
「ふふふ、気丈だねえ。あんたたちの航海に実り多からんことを」
「ありがとう。世話になった」
 ウィルが今度こそ帰ろうと脚を動かしたときだった。再びエルミラが口を開く。
「アンタ、隠し事があるでしょう」
 ウィルは背を向けようとした足を止め、黙って彼女の顔を見つめた。気紛れな占い師はこちらを見て不敵に笑っている。見通す力のある彼女の前で、誤魔化しなど必要なかった。ウィルは諦めた様子で口を開く。
「……たいしたことじゃないし、隠してるわけでもない」
「ふうん。さっきからあんた、つまんないわァ。慌てるところが見たかったのに」
 彼女はウィルの返答にすっかり冷めたようで、漂う煙を見つめながら煙管を吸った。
「今度はお仲間を連れていらっしゃい」
「ご免だね」
 どうせ引っかき回して楽しむだけだろう。顔に書いてある。こうなると思ったから誰も連れてこなかったのだ。こっちとしては遊び道具に使われて実にいい迷惑だ。腕だけは確かなのに、こういうところが非常に面倒な相手なのだ。


 それから二人は占い師の家を後にして、元来た道を歩いていた。
 木立がざわざわと葉を揺らしている。辺りはすっかり暗闇に包まれていた。絵の具が溶けあうみたいに深緑の葉っぱと夜の群青が入り混じって、森がうっそうと頭上に覆いかぶさっている。草木はのんびりくつろいでいる夜に隠れて、おどかしてやろうと息を殺して身構えていた。
 有体にいうならば不気味な道だ。しかし、そんなものを気にするウィルではなかった。なぜなら彼は暗がりを怖がるような繊細さは持ち合わせていなかったし、仮に獣や盗賊の類が出たとしても追い払える自信があったからだ。セレンくらいの歳の女の子なら怖がって立ちすくんでもおかしくはないが、少女も特に怯える様子は見せない。ウィルは、意外と芯が強いのか、などと考えてから怖いと感じることさえ忘れているのかもしれないと思い当たって複雑な気分になった。
 道中、占い師の家でのことを思い返しながら歩く。あのとき、セレンは終始無表情で人形のようだった。話によれば徐々に感情が増えていくとのことだったが、先は長そうだ、とウィルは小さくため息をついた。
 それに気づいたのかはわからないが、セレンは感情のない瞳でじっと隣を歩く彼を見上げる。その金の瞳は鏡のように青年を映している。少女は何を言うわけでもなかったが、ウィルには『自分は面倒事だろうか』と自虐しているように思えて、ついこう返した。
「お前は細かいこと気にする必要ねえって」
 ウィルはそう言ってぐしゃぐしゃと少女の頭を撫でた。おかげで髪がずいぶん乱れたが、彼が気にする様子はこれっぽっちもない。
 そのときだった。まん丸だったセレンの瞳が細くなり、口元がほころぶ。黄金色のはちみつがとろりと溢れるみたいに、目の前の乱雑な青年に向かって柔らかな笑顔を見せた。
 不意の出来事だったから、一瞬息が止まった。こんなに小さいけれどやっぱり美人だ。大人になったらきっと周囲を騒がすだろうなんてくだらない空想をする。
「笑ってる方が似合うぞ」
 初めて自分だけに向けられた笑顔に、ウィルも胸の奥があたたかくなり再びセレンの頭をぐしゃりと撫でた。少しずつ成長しているんだと、親心に似た感動と喜びを感じながら。



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