#08 出発点


 

 

  二人は仲間たちが待つ酒場の二階の一室へと戻った。文句は言えないが、決して広くはない部屋に八人も入るとさすがに狭い。椅子の数が足りず、立ったままかベッドの縁に腰掛ける者がほとんどだ。
 そんな中で船長は彼らに占いの結果を伝えた。いつものようにその反応は様々で、大げさに驚く者もいれば神妙な顔つきで考え込む者もいる。
「強力な呪いって……」
「魚じゃなかったんですね」
「でもさあ、結局セレンちゃんが何者かわかんなかったってことだろ」
「どうするんだ」
 今回のことで、誰もがセレンの素性がわかると期待していた。ウィルも同じだった。少女がどこの誰なのかわかれば送り届けてやるつもりだったし、親がいないならマリサの元に預けるつもりだった。しかし、わかったことは少女が呪いをかけられているということだけ。
 普通に生活していたら滅多なことで呪いをかけられることはない。恨みを買ったのか悪いことをしたのか、追われている可能性だってある。いずれにせよ明らかに厄介事だった。
 皆が一体どうするのかと、ウィルの顔を伺った。
「そのうち記憶が戻るかもしれないって話だ。どこの誰かは思い出した時に聞けばいい。一緒に連れて行く」
 その言葉に、すぐにディノが待ったをかけた。
「連れていく必要はあるのか? 船旅は楽じゃない。セレンもまだ小さいし無茶させるかもしれない。そのうち思い出すっていうならマリサに預けても問題ないだろう」
「……」
 ディノの言うことはもっともだ。わざわざ危険にさらす必要はない。ウィルは、連れていくべきだという確信的な直感と、連れていって最後まで見届けたいという自分の我儘をどう伝えたらよいのか考えあぐねた。俺が船長だ、と言って押し通すこともできるが、行き過ぎた先導はただの横暴で押しつけだ。さて、どうしたものか。
 そのとき、カルメロがひょっこり口を出してきた。
「あのー、一応セレンにもどうしたいのか聞いたら?」
 ウィルとディノは揃ってカルメロを見た。思いつきもしなかった、けれど素直にそれを口にするのはバツが悪いという顔で。少年の隣にいたブランが「それもそうですね」と頷いてセレンの前にかがみこむ。
「セレン、きみはここでしばらく暮らしますか? それとも僕らと一緒に行きたいですか?船旅はきっと大変だと思うけど」
 いつもの無表情――いや、少しだけ目を見開いて、セレンは目の前の金髪の青年を見た。それからきょろきょろと周囲を見回す。その場にいた全員が少女に注目していた。
 なかなかセレンは動かず、沈黙が訪れる。誰かがため息をついた。自分の意志さえも忘れてしまったのか、それともベラノに残りたいのか、何にせよ無茶な振りだったと大半が考え始めたときだった。
 セレンがおどおどしながら、一歩、足を踏み出した。そして一歩一歩、確かめるようにウィルの隣まで歩くと、佇む彼の袖をぎゅっとつかんで見上げた。その表情から決意や不安を読みとることはできない。けれどセレンにとって初めての、確かな意思表示だった。
「決まりだ」
 ウィルは、そう言って船員たちを確認の意を込めて見渡す。反対意見を出したディノも本人がそうしたいなら、と口を閉じた。
 反論がないことを確かめてから、ウィルは自分の腰より少し大きいくらいのセレンに「これからよろしくな」と笑いかける。すると少女はこくりと頷き、笑い返したのだった。
 まさかここで彼女の笑顔が見られると思っていなかった一同は揃って息を飲み込む。花が咲いたようなあたたかな空気が、少女を中心として広がった。少しずつ笑顔を見せる頻度が高くなってきたような気がするが、忘却の呪いがほつれていくとは、つまりこういうことなのだろうか。もしかしたら、本来ならセレンは年相応に表情を変える明るい子なのかもしれない。
「おい、てめえだけずるいんだよ」
 腰かけていたベッドから立ち上がり突っ込んできたのはルシオだ。
「セレンちゃーん! 俺も! よろしくね!」
 そう言って少女の手を取って一方的に握手する。
「あ、じゃあぼくも、よろしくねセレン」
「それなら僕も」
 ルシオをきっかけにして船員たちがわらわらと集まってきた。その様子に、ウィルが鬱陶しそうにうんざりする傍ら、少女はきょとんとして人垣を見上げていただけだった。
 話すには確証がなさすぎると口を閉じてきた自分の仮説。セレンを航海に連れて行くと決まった今、せめて最低限の人とは、可能性の一つとして共有しておく必要があるのではないだろうか。ウィルは沸き立つ船員たちを後にして、ディノとリリィを連れて別室へと移動したのだった。


 さて、場所が変わって隣の部屋だ。先ほどまでいた部屋とほとんど造りは変わらず、古びた円形の机も少し色あせたカーテンも同じようにそこにある。違うところと言えばせいぜい絨毯の模様や壁にかかっている絵画くらいだ。足を踏み入れると床板がきしみ、薄っすら積もった埃が軽く舞い上がった。
 ウィルは使い古された木製のイスをひき、どかりと座り込む。ディノとリリィは困惑した様子でどうしたものかとお互い目配せをすると、ウィルがとりあえず座れと促した。イスは丁度三脚、机を囲む形で置いてある。遠慮がちに二人が座ったのを見ると、すぐさまウィルは口を開いた。セレンについてひとつ考えていることがある、と。そうして彼は、彼の考えている可能性について説明を始めた。
「――ってわけだ。どう思う?」
 どう思うと言われても。二人とも目を丸くして顔を見合わせた。
 ディノとリリィにしてみれば、セレンが一緒に行動することになり、騒ぐ船員たちを微笑ましく見ていたらウィルに別室へと連れ出され、何事かと思っていたら突然『セレンがリーチェの王族じゃないかと疑っている』という話を聞かされたのだ。唐突過ぎる。どう思うと言われても、考えをまとめる時間くらい欲しいものだ。
「ちょっと……突拍子なさすぎなんじゃないか?」
「さすがに想像の部分が大きいと思うけど」
 二人とも怪訝な顔をして意見を述べる。否定的な反応は予想の範囲内だったようでウィルもさほど気にしている様子はない。
「わかっている。一つの可能性として頭の隅に留めておいてほしいだけだ。もちろんただの想像だが、捨て切れない可能性でもある。何が本当なのか、危険があるのかもわからない。はっきりしたことが何もわからないのならいつでも手の届くところに置いておきたい」
「お前、いつの間にそんなに入れ込んでたんだ?」
 ディノもリリィも何とも言えない表情でウィルを見た。当の青年は、入れ込んでるか、と首を傾げる。それからほとんど聞こえないほどの小さな声でぼやいた。困ったことに、そうさせるだけの何かがある、と。それからすぐにおどけた表情を作った。
「ま、縁は大切にしたいだろ」
 少女と出会ってからわずか数日だ。ほんの数日間。まだあの少女の本名もわからないし、ようやく笑顔が見れた程度で、言葉を交わしたことさえない。彼ら渡り屋が勝手に名前をつけて、ああだこうだと好き勝手に彼女について詮索して状況を回しているだけだ。彼女からのアプローチは、たった一回ウィルの袖をつかんだだけで、それ以外、彼女が彼らとつながりをつくろうとしたことはないのだ。少女が示しているのは完全なる無関心。もちろんそれが呪いのせいだということもわかっているが、それでもそこまでウィルが思い入れるようなことがあったのかと、訝しむのは当然だろう。しかも出会いだって彼が一方的に引き寄せたようなものであるというのに。
 だが、この広い大海原で一隻の帆船と小舟が出会う確率は一体いくらだろうか。ウィルには、海上で彼女の乗る小舟を見つけたときにすでに全てが決まったような気がしていた。くだらない言い回しだが運命とでもいえばいいのか。何もかも忘れてしまった幼い少女と、自由な渡り屋たちとの不思議な縁。今更理由がどうこうだなんて、ずいぶん馬鹿げたことのように彼は感じていた。
「あー、その、リーチェの王族だけが持ってるとかいう装飾品については確認できないのか?」
「リーチェでも公にされてる話じゃないから難しいだろうな」
 装飾品の話が本当かどうか、これが曖昧ならウィルの組み立てた論理が全て崩れてしまう。
「それなら早くリーチェへ行って、確認するなり王城に行くなりしたら良いんじゃないか。お前の予想が当たってるなら向こうの国は大騒ぎだろ」
「ところがそう簡単な話じゃないんだ」
 ウィルは肩をすくめてため息をつくと、昨晩マリサから聞いた情報を二人に話した。今リーチェで騒ぎが起こっている様子はなく、王子も王女も風邪でしばらく寝込んでいるらしい、と。
「問題はこれをどうとるかだが」
「騒ぎが起こってないなら、セレンは王族じゃなかったってことだろ。なんだ、よかったじゃないか」
「……もしくは、」
 ここまで黙って話を聞いていたリリィが、良く通る声でディノの気の緩みを制した。
「お姫さまがいなくなったことを”風邪”と偽って、国民に隠しているか、でしょう」
 それを聞いてディノは眉をひそめる。ウィルはその通り、と笑った。
「仮に行方不明になっているのを隠蔽しているとして、その理由は何だと思う?」
「隠してるっつーことは騒ぎにしたくないわけだろ。つまり、国民を不安にさせないため、か……もしくは……探されたら困る……とか?」
「そうだな。まあ普通に考えたら前者だろう。姫がいなくなったと公表したら国民が混乱するのは目に見えているから、とりあえず適当な嘘で誤魔化しておけと、お偉い大臣方なら考えるだろうな。けど、考えてみろよ。当のお姫さまが、強力な呪いをかけられて海を漂流してたんだ。……ずいぶんときな臭い話じゃねえか?」
 しん、と沈黙が落ちてきた。ディノもリリィも、何も言わずに今のやりとりを反芻していた。
 もし本当にセレンがリーチェのお姫さまなら、本来なら一国で最も保護を優先される立場の人間が、呪いを受けてたったひとり海を彷徨っていたこととなる。しかもかの国ではこのことが隠蔽され、騒ぎ一つ起こっていないという。あの平和な島国で一体何が起こっているというのだろうか。ここまで条件が揃うと、否が応でも想像してしまう。もしかして海の向こうのあの国で、何か物騒なことでも起こっているのではないだろうかと。
 セレンがお姫さまでないなら、大の大人が三人揃って深刻そうな顔をつきあわせて、ずいぶんと大げさでしょうもない妄想をしているものだ。事情があって呪いをかけられた娘をひとり、身柄を預かるというだけであるのに。だが、いっそ何を馬鹿げた妄想をしているのかと笑われ者になりたいと、誰もが鉛のような気持ちを飲み込んでいた。
 現時点で、ここが茨道であるか石畳の街道であるかの判断をつけることができる鍵は、彼女の首飾りだけである。
「ま、全部仮定の話だけどな。でも、最悪の事態にならないように、しばらくはリーチェには行かない。何かしら確信が得られるようになるまでは」
 いいな、とウィルが念を押すと二人は黙って頷いた。


「ところで、ちょっと気になったんだけど」と切り出したのはリリィだ。
「セレンがリーチェの人なら、言葉、通じてないんじゃないの?」
 一瞬沈黙ができた。
「で、でも、見た感じでは俺たちの言うことがわかってるみたいだったよな」
「まあ確かに伝わってないってことはなさそうよね……。そうするとやっぱりクラロの生まれじゃないのかしら」
 ウィルはちょっと待て、と二人を遮った。
「セレンには知ってるだけの言語を試してみたが、全部同じ反応だったぞ。もちろんリーチェの言葉も」
「そうなの? ……もしかして、言葉まで忘れているのかな」
 ああ、と全員が合点と諦めの入り混じった顔で息を吐いた。セレンと意思疎通をするだの事情を聞こうだの、会話どうこうという話の前に、言葉そのものを教えて行く必要があるようだと気付いたからだった。こうなると忘れているのがどの程度であるかが非常に重要になってくる。最悪、「あ」は「あさ」の「あ」で、「い」は「いちご」の「い」だとか、「いちご」は「赤くて甘い食べ物」だとか、そういうレベルでものを教えていかなければならない。
「はー、こりゃ、思ったよりも」
「大変かもしれないが、とりあえずクラロの言葉でいいから面倒がらずに教えてやってほしい。セレン一人に対してこっちは七人だ。そう負担にゃならないだろ」
 ディノが何を言おうとしたのか、ため息と声色から察したウィルは、彼に続きを言わせることを許さずに、上から声を被せて念を押すように目を光らせた。
『連れていくと決めたのだから、面倒だとか厄介だとか思ったとしても態度に出してはいけない。』
 言葉にこそしなかったが、彼が言いたいのはつまりそういうことだとディノとリリィは察したのだった。二人は両方の意味にわかったと頷く。
 何気ない一言だったとしても、言葉として形を持たせてしまえばいずれそれは態度へと影響する。疎まれながら生活を送った者が、健康な心に育つとは考え難い。ウィルはセレンに、困っている人には迷わず手を差し伸べ笑いかけるようなやさしい存在になってほしかった。だから疎んじることなく、赤子にものを教えると思って、ひとつひとつ丁寧に愛情を持って接していこうと内心で決めていたのだった。世間知らずと言われることになろうが、両腕に抱えきれないほどの愛情をめいっぱい注ぎながら育ててやりたいと。
 話はこれだけだ、とウィルが立ち上がると、後を追うように二人もイスを後ろに引いた。
「ところで聞いていなかったが次はどこへ行くんだ?」
「お前、一攫千金に興味はないか?」
 ウィルがニィ、と楽しげに目を細めた。行き先を聞いたのに一攫千金とは滅茶苦茶だ。質問の意味を捉え損ねたのか、話を聞いていなかったのか、と疑いたくなる返答である。けれどディノには見当がついた。
 どの時代どの場所でも一攫千金などそうそう転がっている話ではない。ただし、リスクを負えば、可能性はある。たった一瞬で億万長者か無一文か、運命を左右する場所がある。
「眠らない町か」
 ギャンブルの町ルジョンテ。金持ちの金持ちによる金持ちのための町で、彼らの娯楽が集ったきらびやかに輝く絢爛な町だ。深夜でも明かりが途絶えないだとか、大勢集った金持ちたちが持つ宝石や黄金がきんきら光って昼夜変わらず明るいだとか、云われはいろいろあるがとにかくこの町にはさまざまな呼び名があって、眠らない町、ブルジョワの町、ときには成金趣味の町などと称される。多くの金や物、人が集まる町ではあるが、きらびやかな面の影に人の欲というどす黒さが潜む夜の町である。
「東洋で手に入れた宝石類がまだ残っているからルジョンテで売るつもりだ」
 了解、と船員二人は返した。
 彼は明朝の再度集合を呼び掛けるため、これから隣の部屋で号令をかけるのだろう。そうしたら数日後か、一週間後か、彼らは再び陸地を離れる。深淵へと引きずり込もうとする怪物の、真っ青な手から逃れるように船を滑らせ海を渡って行くのだろう。求めるものは富か名声か、失くした心か呪いを解く方法か。はたまた、何者かに隠された、謎を解くためのピースの破片か。
 一人の少女を今度は“拾い物”ではなく“船員”として迎え入れて、広大な世界を渡って歩く、ちっぽけな彼らの日常は続く。



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