その日の夕方、だいぶ太陽も傾いてきたころである。
白い鳥が、海面をじっと見据えながらホバリングをしている。水面がきらと光ったかと思うとその鳥は勢いよくダイビングを繰り出した。すぐに海面に浮かんできたが、その黄色のくちばしには魚がしっかり捕まえてあった。
ウィルは甲板に降り立つと嫌そうに暴れる魚を放り投げた。それは既に甲板にあった十数匹の群れに加わり、木の板にはねては銀色に光る。ウィルはまたすぐに飛び立つと海上を旋回した。
キッチンから顔をのぞかせたのはディノである。甲板に山となっている魚の数を数えると、「もうそろそろいいかなあ」と独り言をつぶやく。そして魚たちがあちこちはねるせいで甲板に飛び散った水を眺めてぼやいた。
「それにしても、こりゃ早く拭かないと誰か転ぶぞ」
「ディノ、とりあえず先にこっちをやってくれ」
開きっぱなしのキッチンのドアの奥からエミディオの忙しそうな声が届いたので、ディノはほいほい、と軽く返事をして戻っていった。
入れ替わりにやってきたのはブランとカルメロだ。カルメロは彼にほとんど引きずられるようにして甲板の隅で座り込んでいるセレンの前に連れてこられた。
「セレン、見てくださいよ、似合うと思いません?」
ブランは彼の脚にくっついて離れようとしないカルメロをひっぺがして前へと押し出した。
セレンはぼんやりと彼らを見上げる。カルメロは、今にも海に身を投げそうな不満げな顔をして突っ立っていた。その白金の髪は紙製の花で飾られ、レースの布をていねいに腰に巻いてスカートに見せ、おそらくリリィの私物であろうエプロンと首飾りを身につけている。確かにショートヘアだが、それでも十分少女に見えた。
「ね、ね、かわいいでしょ? きみやっぱり女の子なんじゃ……」
「ブランもリリィもいい加減にぼくで遊ぶのはやめてよ! ばかなこと言ってないで早く戻ろう、ルシオが来る前に! どうせ大笑いされるんだから……」
「セレンちゃん、喉かわいただろ、飲み物持ってきたから――」
噂をすればなんとやら。タイミングよくキッチンからやってきたのは紛れもなくルシオである。カルメロが船室に戻ろうと踵を返したところに丁度よく鉢合わせ。目が合う。そして数瞬の沈黙。
「お前まあたそんなかっこしてんのかよ! 懲りないやつ!」
案の定、ルシオはゲラゲラと腹を抱えて笑いだした。
「ぼ、ぼくだって好きでこんなかっこうしてるんじゃ……」
「好きでやってたら本物の笑い種だわ!」
尚もばか笑いを続ける彼に、カルメロは顔を真っ赤にして身体を震わせた。
「ルシオなんかクラーケンに絞め殺されればいい!」
カルメロがその小さな体で思い切りルシオを突き飛ばすと、まだ幼いとは言えどそれなりの力で、彼はよろけずにはいられなかった。崩れたバランスを取り戻そうと後ろにやった足は、はねる魚たちによってまき散らされた水たまりを見事に踏んづける。そのまま滑って、大転倒してしまった。手に持っていたコップと飲み物を頭から被るというおまけ付きだ。
一瞬の沈黙の後、一気に甲板が沸いた。これにはカルメロもブランも大笑いだった。その騒ぎに一体何があったのかとリリィも様子を見にやってきて、状況を見てなんとなく理解をしたらしい。しょうもないと呆れたような笑ったような顔をしていた。
「いってえ……。畜生、何でこんなとこ濡れてんだ。今朝も俺が掃除したはず……」
ルシオがどうやら転んだときに打ったらしい腰をさすりながら辺りを見回した。そのとき、鳥の羽ばたきが聞こえてきた。ウィルだ。その鳥は甲板にとまると捕った魚をぽんと放り投げる。捕れたての魚はいきが良く、びちびちとはねて回って、他の魚たちと一緒に水たまりを作っていた。
「お、お前かあっ!」
ルシオは澄まし顔の鳥を指差して叫ぶ。その鳥はこちらの方を見ると、とぼけたように首を傾げた。
「お前のせいで転んじまったじゃねーか! しかも今朝俺が掃除したってのにこんなに汚しやがって」
ウィルは知らん顔を決め込むようで、ルシオを無視してとてとてとキッチンの方へと歩いていった。ドアの前で一声鳴くと、ディノが「おう、できたか」とバケツを持って姿を現した。
「バケツがあるなら最初っからそれに入れろよ!」
「ああ、すまん。別のものに使ってたもんでな」
ディノは床に散らかる魚たちを次々とバケツの中へ入れていった。その様子を見ながら、苛立ちをどこにぶつけることもできずにぶつくさと不満をつぶやいていたルシオは、突如後頭部に衝撃を感じた。視界が揺れる。悲鳴を上げて振り返ると、そこにいたのは一匹の白い鳥。そのくちばしで彼の頭をつついたのだ。その後ばかにするかのようにひとつ鳴いて彼の頭にとまったのだった。ルシオがこいつ、と頭上の鳥を捕まえようと手を振り上げるとひょいとかわされて、まるでおちょくるように彼の近くで停止飛行する。
ルシオのいらつく気持ちが爆発した。
「こっのアホウドリが! 今日という今日はとっ捕まえて丸焼きにしてやろうか! ただ飛んで食べることしか脳のない鳥が!」
「落ち着いて下さいよ、ルシオ。この間だってウィルさんに喧嘩を売ったせいで海に沈められるところだったじゃないですか」
ブランが慌てて止めようとしたが無駄のようだった。
「止めるなブラン、今日こそ参りましたと言わせてやるクソ野郎」
そう言ってウィル目がけて手を伸ばすが、飛べるウィルにとってそんな動作は痛くも痒くもない。襲い来る手も罵声もすべて軽くかわしていた。
「ちょこまかと逃げやがって鳥畜生が!」
そんな一方的な追いかけっこをしているうちに夕日は彼方へと静かに沈んでいく。ルシオがその夕焼けに気づく様子はない。太陽のてっぺんが水平線とぴったり重なったそのときにはもう、そこに鳥の姿は消えていた。
茜色の残光を背負いバンダナをはためかせて立っていたのは、青髪の青年だった。鋭い視線がルシオを射抜き、日暮れを予測していなかった彼は一瞬怯んでしまう。
「へえ、誰が一体何だって?」
ウィルは間髪入れずに一発彼の頬を殴った。そして倒れ込んだルシオにすかさず馬乗りになると胸倉をつかんで持ち上げた。
「この船に乗りたくないなら降ろしてやるよ、今すぐにな」
そう言って浮かべた笑みは悪魔そのものであった。すぐにどたばたと喧嘩が始まり、騒がしいことこの上ない。しかし周囲の者はまたやっているのかとため息をつくだけで、特に気にとめる様子もない。
「おい、リリィ、いい加減止めてやれよ……」
迷惑そうな顔でディノはリリィをせっついた。
「ウィルも本気じゃないわよ」
「え……ちゃんと見えてる? 目が笑ってねえよ……本気だよ……」
ディノの声など聞こえていないかのように、リリィは遠くを見つめて呟いた。
「昔はね、ルシオみたいに一緒に馬鹿やれる友達がいたのよ……」
「何回想してんだよ! 頼むよ、お前が言うのが一番効くんだから」
ディノにせがまれ、仕方がないとリリィはため息をついた。
「二人とも、いい加減にして」
うんざりと声をかけても暴れる二人には届きそうもない。今度は少し眉をつりあげて、力強く言い放った。
「いい加減にしなさい!」
その大きな声に驚いて喧嘩する手を止めリリィを見つめた二人を、彼女はキッと睨みつけた。
「みんなの迷惑よ。さっさと自分の仕事に戻って」
男二人は渋い顔をして拳を下ろす。数瞬睨みあうと、互いに背を向けて各々の仕事場へと戻っていった。眉を寄せて疲れた顔をしていたリリィに、ディノがその肩を叩いた。
「助かったよ、これでセッティングできる」
「もう、たまには自分で仲裁したらどうなの」
「俺の言うことなんざ聞かんさ」
そう言ってディノは朗らかに笑った。
月が高くなったころ。甲板にテーブルとイスを運んで、今夜はちょっとだけ紳士的なディナー。白いテーブルクロスの上にはじゃがいものオムレツや魚介類のパエリア、りんごのケーキといった料理がずらりと並び、卓上を賑わせている。言うところのお誕生日席にセレンを座らせると、皆も各々適当な席についた。それを見届けるとカルメロはイスから立ち上がり、話始める。
「えーそれじゃあこれからセレンの歓迎会を始めます! はじめにキャプテンから一言。ほら、立って立って」
「お前、真面目だな。……えー、いろいろとわけありみてえだけど、縁あってこの船に乗ったわけだ。こんな騒がしい毎日だけど、まあしばらくの間、よろしくな」
「ありがとうございます。それじゃあ、みなさんグラスを持ってー……いい? かんぱーい!」
空へとかざしたグラスの中でワインとジュースが踊り、月の欠片がきらきらと輝いた。グラスを合わせるとからんと澄んだ音が響く。豪胆な男共はその中身を威勢よく飲み干す。グラスを置くと、食事が騒々しく始まった。
ワインはそんな風に飲むものじゃないとしかめっ面するエミディオを、ブランはあの人たちに言っても仕方ないですと苦笑しながらなだめる。ゆっくり料理を楽しむ者も、料理の争奪戦を始める者も、ビールを持ってきて飲みまくっている者も、とにかくさまざまで、自由気ままで、みんながみんな賑やかに楽しそうにしている。それは決して上品とは言えないけれど、おとなしく食事しているだけでは得ることのできない何かがあった。彼らのそんな様子を、セレンはじっと見つめていた。
「せっかくだから歓迎の歌でも歌おうよ〜」
「おう、いいぜえ? どんと来い!」
場の空気に飲まれてすっかりハイになったカルメロと、酒を飲んですっかり出来上がったルシオが、肩を組んで歌い出した。船乗りが愛する陽気な歌だ。ところどころ音程を外したりアドリブを入れたり踊ってみたりと実に愉快に歌い続ける。歓迎の歌じゃないわよとリリィは笑っていた。
「おらブラン、ボケっと見てねえでお前も歌え! 踊れ!」
「そんな、無茶ぶりですよ」
ルシオに引っ張って連れてこられ、渋りながらも歌い出すと、彼のなかなかの音痴具合にみんな笑ってしまった。
「そうじゃねえ、こうだ!」
乱入してきたのはディノである。力強い声に、不安定になっていたメロディが落ち着いてきた。決して上手いわけではないのだが、聴き入ってしまう豪快な歌声だ。エミディオが手を叩いて拍子を取ると、より一層賑やかな歌になった。
「それじゃ、俺たちは踊るか?」
そう言ってウィルはリリィに手を差し伸べる。
「何を?」
「んー、ワルツ?」
ウィルがおどけて笑ってみせるとリリィもくすりと笑った。
「合うわけないでしょ」
そう言って彼の手を取り立ち上がった。
歌に合わせて適当に踊りをつけると、場がますます華やかになった。
みんなが思い思い好きなようにやっている。それでもばらばらになったりはせず、不思議な一体感がある。何よりそこにいたら飛び跳ねたくなるような、明るくて楽しい空気がその場を包んでいた。
カルメロは高揚している気持ちを満面の笑みに変えて、セレンの手を取った。
「セレンもどう?」
目が覚めてからずっと心ここに在らずといった風なセレンだったが、このとき初めてカルメロと目が合ったのだった。無邪気でかわいらしいプラチナブロンドの少年が、少しだけはにかみながら少女の手を取っている。後ろからは愉快な彼らの歌が聞こえる。
その大きく見開いた瞳には光が宿り、どこかを泳いでいた意識がすとんと彼女へと戻ってきた。そのきれいなはちみつ色の瞳にいっぱいの楽しさを映しだし、少女の無表情はみるみる笑顔に埋もれていった。
そして、ひまわりのような明るい表情を満面に浮かべて笑ったのだった。
「! セレンが笑った!」
初めて見る少女の笑顔に、カルメロは驚きはしゃいだ。
「セレンが笑ったよ!」
「えっ本当ですか!」
「そりゃよかったじゃねえか」
「やっぱりセレンちゃんの笑った顔はかわいいな!」
カルメロの声に、すぐにみんなは二人のそばへと集まってきた。そこにはもう生気のない人形のような姿はなかった。彼女の笑顔に、みんなが驚きと喜びを隠せない。
「よおしセレンちゃんのかわいい笑顔も見れたことだし、続き行くかあっ! 歌ってほしいもんがあったら言いやがれ!」
あとはもう船に乗っている者みんなを巻きこんで、何でもありの大宴会だ。
お日さまのような笑い声と歌ははじけて踊り、そんな彼らを照らす月は去るのが惜しいとでも言いたげに、ゆっくりと夜は深けていく。
(120114)