あれほど輝いていた月明かりは弱まり、船を覆っていた群青の世界が徐々にほつれてきた。星たちはおやすみを告げてゆっくりと目を閉じ、地平線がオレンジに輝き始める。夜明けだ。マストの見晴らし台で双眼鏡を片手に座り込んでいたウィルは息を吐いた。太陽が顔を見せたらしばらくこの姿とはおさらばだ。青年は明るくなった空を仰いだ。
地平線から眩しい光がすっと一筋伸びてきた。続けて二つ、三つ。世界が明るく染められていく。夜明けの瞬間はこの世のものとは思えず、ここが天国であるかのように錯覚さえする。もしかしたらあの世とこの世が交わる瞬間なのかもしれない、なんて馬鹿げた空想をよぎらせる。今ではこの美しさを堪能する余裕さえできた。
太陽が海の向こう側から姿を現したとき、そこに青年の姿はなかった。朝日を身体いっぱいに受けながら佇んでいるのは、カモメほどの大きさの一羽の白い鳥だった。その鳥は鋭い目つきで太陽を睨んだ。
船長ウィルは魔法をかけられていた。日中は姿が鳥へと変わってしまう呪いの魔法だ。日が沈むと効力が切れたように元の人間の姿へと戻るのだが、魔法をかけられた当初はずいぶんと苦労した記憶がある。船員たちにも憐れまれたり笑われたりと散々であったが今ではすっかり日常の一部に溶け込んでしまっている。
昔ほど不満も不自由も感じていない。むしろ今では鳥になれることの利点さえも見出しているほどだ。この生活にはもう慣れた。しかし、それでもいつになったらこんな追いかけっこから解放されるのだろうと憂鬱を感じることはあった。ウィルがその憂いを外に見せることは決してなかったが。
白い鳥はその黄色いくちばしで双眼鏡をくわえた。同時に、下方からブランの声が届いた。
「船長! 目を覚ましたようです」
ウィルは待ってましたと言わんばかりにその灰色の混じった翼を大空へとはためかせた。
白い鳥はブランの肩に乗って少女のいる船室へと入った。そこにはベッドから上半身を起こして座る少女と、真剣な表情で少女を見つめるリリィがいた。
ブランはゆっくり扉を閉めてベッドの隣へ行くと、少女と視線を合わせるためにそっとしゃがみこんだ。
「おはようございます。気分はどうですか?」
「……?」
少女は虚ろにこちらを見た。その表情には、驚きとか、疑問とか、不安とか、あるべきものが何も現れていない。彼女は夢の中でぼんやりした膜に包まれているかのようで、その瞳には誰の姿も映していなかった。水底を掻きまわしたようにただ淀んでいる。
『ここは貿易船の中だ』
ウィルが机の上に置いてあったペンと紙を見つけてきて、くちばしにペンをくわえて器用に書きつづった。さすがに上手とは言えないが、読めないほどではない。
「……」
少女はそのメモを見ても何も反応せず、沈黙を保っている。白い鳥はその紙を彼女の毛布の上に置くと、次の言葉を書き始めた。
『俺は船長のウィル。日中は鳥に姿が変わる呪いがかかっているせいで今はこんな姿だが、一応人間だ。お前の名前は?』
「……」
少女が微かに口を開いた。それは小さいものであったが、確かに彼女は言葉を紡ぐように口を動かした。しかし、そこから言葉が漏れてくることはない。どこか遠くを見たまま、少女はそっと右手で自分の喉元に触れた。先ほどよりもわかりやすく口を動かすが何も聞こえない。
「もしかして、話せない?」
かがみ込んだままブランが訊ねた。少女はゆっくりと視線とブランに移すと、生気のない表情で静かに頷いた。
「焦らなくてもいいよ。文字は書けますか?」
少女はしばらくぼんやりとブランを見つめた後、ゆっくりと首を傾げた。
「そうですか……」
ブランは静かに立ちあがった。
「困ったわね……」
眉間にしわを寄せてリリィがつぶやく。
「何が原因なのか、もともとこうだったのか、何らかのショックでこうなったのか、僕にはわかりません。どうしたらいいんでしょうか……」
暗い表情で立ち尽くす二人。
少女は泳ぎ方を忘れた魚のように、ただぼんやりと座っている。彼女の長い髪は朝日にまばゆくきらめいていた。その髪の一本一本が光の糸のようだ。しかしシルクのようななめらかな光に埋もれて、その表情のない顔は今にも霞んで消えてしまいそうだった。
「キュッキュッ」
すると突然机の上の白い鳥が鳴いた。見ると、片足で一枚の紙切れを何度も踏みつけて強調している。
『セレン』
二人はその走り書きを見て首を傾げた。ウィルは新しい紙に続きの言葉を書きつづる。
『名前がわからないならセレンと呼ぼう。とりあえず陸まで届けるぞ。考えるのは全部そこからだ。お前ら船の行き先は忘れてないだろう』
机の上から鋭く見上げてくる彼に、二人は顔を見合わせて頷いた。
「目的地は僕らのホームでしたね」
「ええ。彼女のことは私がみんなに説明しましょう」
マストに取りつけられている鈍く輝く銀の鐘を、ウィルはそのくちばしで思い切り打ち鳴らした。大空に悠々と翼を広げる大鷲を思わせる、堂々とした強かな音が船中に響く。すると、それまで各々仕事をしていた船員たちが何事かとマストの元へと集い始めた。これは緊急時や連絡時に全員集合を指示する合図であり、基本的に全員集合の命令は船長と副船長以外は出してはいけない決まりになっている。
実はこの鐘、叩いた者の意思に応じてどこまで音が届くかを操作できる魔法の鐘である。そのため個人が個人を呼び出す際にも使われている。ちなみに鐘を鳴らす者によって音は変化するので、誰が鳴らしたのかも判別することができる優れものだ。彼らは渡り屋として世界中を回っているため、こういう少し変わった物を手に入れる機会が多いのだ。
「みんな集まったみたいね」
白い鳥を肩に乗せたリリィが辺りを見回した。集まった船員たちは、リリィの隣に立つ少女を興味津津といった風に見つめていた。
「みんな、よく聞いて。昨日ウィルが拾ったこの子のことだけど、とりあえず次の目的地、ベラノまで連れて行きます。ただし、彼女は普通の女の子じゃない。言葉も話せないし文字も書けない。話しかけても反応はほとんどない。絶対に無理をさせないこと、話すように強要したり乱暴にしたりしないこと。いい?」
了解です、という揃った声が届くとリリィは続けた。
「どこが出身なのかも名前さえも分からなかったの。とりあえず、この子をセレンと呼ぶことにします。食事は一人分追加、寝る場所は私の部屋で。以上、船長代理。何も質問がなかったら自分の仕事に戻って」
そうリリィが締めると、船員たちはときたま少女の方を気にしながらぞろぞろとその場を離れていった。
「私も仕事があるんだけど、ずっと寝てるのなんて嫌だよね。…とりあえず甲板で船の様子でも見てる?」
少女、セレンにそう問いかけると、彼女は小さく首を縦に振った。果たしてリリィの言葉を理解しているのかどうかはわからない。それでもリリィはセレンの小さな手をひいて甲板の隅へと歩いて行った。リリィはセレンを甲板を見渡せるような場所へ連れて行って座らせると、自分にも仕事があるからと彼女の元を去っていった。青々と広がる空に白い雲が模様をつけている。さわやかな天気だ。
すると、暇そうにしている彼女を見つけて人懐っこそうな少年がうさぎのように小走りでやってきた。しゃがんでぼんやり座っているセレンの顔を覗き込む。
「こんにちは。ぼく、カルメロって言うんだ。ぼくと歳が近い子がこの船に乗るのなんて初めてだから嬉しいな。よろしくね、セレン」
「……」
セレンは視線を空中から少年の顔に移したが、やはり表情は変化しない。カルメロはそんなことお構いなしに話を続けた。
「ぼくら、渡り屋をやってるんだ。…渡り屋って知ってる?」
セレンは微かに首を傾げる。
「渡り屋っていうのはね、いろんな国を行ったり来たりしてそれぞれの国の特産品を別の国で売ってる人たちのことなんだ。非公式で国からの貿易許可証をもらっていないから、あんまり派手にやると騎士団に捕まっちゃうんだよね。あ、キャプテンは昔一回捕まったんだけど脱走してきて、今度は脱走罪込みで追っかけられてるの」
そう言ってくすりと笑う。ころころと表情を変えながら楽しそうに話すカルメロを、セレンはじっと見つめていた。
「おいチビ、サボってんじゃねーよ」
突如カルメロの背後に人影が現れ、ごつんと拳で彼の頭を叩いた。
「痛っごめんってばルシオ。だってぼくセレンと友達になりたいんだ」
「あーん? 俺だってそこの可憐な美少女ちゃんと仲良くなりたいのを我慢して掃除してんだよ」
ルシオと呼ばれた青年は右手にデッキブラシ、左手にバケツを持ってしかめっ面して門のようにそびえ立っていた。立ち上がったカルメロにバケツとデッキブラシを押しつける。まだ綺麗な水がバケツの中で大波を立ててこぼれそうになった。
「これ、お前のぶんだから。さっさと掃除しろよ」
ルシオはつっけんどんにそう言うと、声色と表情をがらっと明るく変えて、セレンの前にしゃがみこんだ。大きくはねた髪が揺れる。
「俺はルシオ。セレンちゃんみたいな可愛い子、はじめて見たよ。君の笑顔は月みたいに美しいんだろうね」
ルシオはそう言って眩しそうに笑う。余裕のある笑みだ。それを見たカルメロは呆れ顔でため息をついた。
「その台詞、もう何回も聞いたよ。気をつけてよセレン。ルシオは女の子が大好きなんだ」
「このチビ余計なことを」
ルシオは振り返って立ち上がり、デッキブラシを奪い取るとそれでカルメロを小突こうとした。ぶたれては大変とカルメロは間一髪それを避けたが、なんと足がもつれて盛大に転んでしまった。思わず手放したバケツは宙で弧を描き、透明な水は華麗に空を飛んだ。バケツが飛んでいったのはセレンが座っている方向。危ない、と手を伸ばしたがその手は虚しく空をかいた。ぼんやり座っていたセレン目がけてそれらは飛んでいく。ばしゃんと水がぶつかる音とごとん、がらんとバケツが床に落ちる音が重なった。
セレンは運悪く頭から水を被ってしまっていた。まだ幸いなのはバケツが彼女に当たらずに落ちたことと、掃除前の綺麗な水だったということだ。
しかし、弱り目に祟り目とはよく言ったもので、どうしようと焦る二人を更に焦らせる出来事が起こった。セレンの姿が忽然と消えてしまったのだ。少女の姿はどこにもなく、そこにあるのは転がっているバケツと、水たまりと、弱弱しくはねる魚だけだ。……魚?
「どっどうしようっ」
「俺だってわっかんねーよ!」
「セレン、どこ行っちゃったの?」
「知るかっとりあえずあれだ、水、水持ってこい!」
何が何だかわからずに、慌てふためく二人。怒鳴られるがままカルメロはバケツを抱えて水を汲みに走った。ルシオは苦しそうにはねる魚を何とかしてやれないかとこぼれた水を掻き集めてすくいあげ、かけてやったがちっとも効果がないようだった。そうこうしているうちにカルメロがあちこち水をこぼしながら走り戻ってきたので、ルシオはすぐさま魚をすくって水の中へと入れてやった。水色の魚はほっとしたようにゆっくりとひれをなびかせた。
二人は安堵のため息をついて座り込む。どっと疲労感が押し寄せた。
「それにしても……どういうことだ?」
ルシオは水の張られたバケツを覗きこむ。そこを泳いでいるのは水色の実に美しい魚だった。大きなひれはレースカーテンのように揺らめき、光の角度に応じてさまざまな色彩を織りなす。どれだけ見つめていても飽きることはないだろう。それにしても、こんな種類の魚は今まで見たことがない。
「わかんない……。とりあえず、キャプテンを呼ぼうよ」
同意を示してルシオは腰を上げた。
本日二度目の召集と、目の前の事態に誰もが言葉を失っていた。
「カルメロが水をセレンにぶっかけて」
「だってルシオが叩こうとするから」
「そしたら魚になっちまったんだ」
「しかもこんな見たことないくらいきれいな魚」
二人の要領を得ない説明を聞きながら、みんなは代わる代わるバケツを覗きこんだ。
「困ったわね……」
リリィは今日二度目の言葉をため息と共に吐き出す。
「まあ、つまりあれだろ。可能性としては二つほどあるわけだ。水を被ると魚に変身する種族なのか、姿が変わる魔法がかかっているのか。どっちが本当の姿かは知らんがな」
そう言ってディノはバケツを覗きこみ続けている白い鳥に視線をやった。
「おいしそうとか思ってんなよ、カモメくん」
ディノは食い入るように魚を見つめる鳥をむんずとつかんでバケツから離した。
「水を被ると姿が変わるならなぜあんな粗末な小舟になんか乗っていた? 少女の姿に戻るのかどうかも怪しいし、仮に戻ったとしても口がきけないなら本人から説明してもらうのは無理だろう。この状況を説明できる人なんて誰もいない」
コックのエミディオは渋い顔をして言う。なんて面倒な拾いものをしたんだ、という非難めいた目つきで。
「もともと魚だったから話せないし文字も書けないっていうなら納得だよね……」
おそるおそるカルメロが付け加える。
「今はこれ以上どうしようもありませんね。とりあえず陸地で情報を集めないと」
ブランは頭を掻きながらそう言う。リリィも頷いた。
「それじゃあ、この子は私の部屋に置いておくから」
困惑した空気を残しながら、船員たちは持ち場へと帰っていった。そんな様子は全く知らないというように、水色の魚は、バケツの中で半透明の尾ひれを優雅になびかせていた。
その日の夜のことだった。相変わらず儚げな魚は水の中でゆらゆらと揺れている。
日没と共にすっかり人間の姿に戻った船長が、見張り番をしているリリィの隣にやってきた。しばらくとりとめのない話をした後、彼はこう切り出した。
「セレンのこと、そんなに騒ぐ話じゃねえだろ。なるようになるさ」
「それをみんなに言ってあげてよ、船長」
「俺が言わなくったってみんな気付いてるだろ」
そう言って彼は夜空を眺める。今夜の月は雲に隠れて、その影をぼんやりと夜の暗幕に映しているだけだ。
「俺はなァ、人間の女の子が魔法をかけられてるんだと思うぜ」
どうして、とリリィが問うと彼は何も答えずに笑ったのだった。
(110929)