月の美しい穏やかな夜のことである。果てしなく広がる海に一隻の船が浮かんでいた。月が映り込んだ群青の絨毯は時折波を立てては船を揺らす。そんな静かな夜のことだった。
その船からは明かりための炎こそ見当たらないが、月光の下、賑やかな声が絶えず響いていた。船上の彼らはどうやら甲板で宴会でもしているようだった。床には空っぽの酒瓶が転がっている。そのそばで何人かは顔をほてらせて豪快に笑いあっていた。酒のつまみばかり食べている者もいれば、輪から離れて彼らを眺めながら静かに飲んでいる者もいる。
「それにしても今日はきれいな空だな」
青い髪をした目つきの鋭い男が、じっと彼らを照らしている月を見上げて呟いた。
「こんな日にゃものすごい歌のうまい美人が現れるって聞いたぜ? 一度でいいから会ってみたいもんだ……」
「ばかですね、それはセイレーンです。そんなこと言ってると惑わされて船を沈没させられますよ」
見えない星を描くように、夜空にうっとりと妄想を抱いた派手な出で立ちの青年を、隣に座る男性が苦笑いして突っ込んだ。
なごやか――というよりもやかましい空気の中で、不意に、青髪の青年が何かに取り憑かれたように立ち上がって海を見渡した。
「どうした、ウィル」
一緒に飲んでいた体格の良い男が不思議そうに青髪の青年を見上げた。ウィルは波間に何かを見つけたようで、立ち上がったまま目を凝らしてじっと一点を見ている。男、ディノもウィルの視線の先に目をやる。そこにはようやく人ひとり乗れるような小さな舟が、静かな海に抱かれてゆりかごのように揺れていた。
「あれは…小舟か? 何か乗ってるぞ」
二人は縁に駆け寄り小舟を凝視した。誰かが倒れている。
「人……魚……?」
開いた口からは自然と声がこぼれ、ウィルは呆然とその人影を見つめた。
青く長い髪と美しく繊細な尾ひれをたゆたわせ、白い瞼を物憂げに落とし涙を流す幼い人魚。月光を一身に浴び木の葉のように揺れる小舟に身を任せ、今にも光となって消えてしまいそうな儚さが彼女にまとわりついていた。
「何言ってんだ、ありゃ人間の女の子だ。幻でも見てんのかよ船長」
ディノが呆れてそう返した。
「あーあ、かわいそうになァ。何があったか知らんがまだ幼いのにこんな海で孤独に死んでいくなんてさ」
ディノは酒瓶を片手に小舟の中で倒れている小さな少女を見つめた。少女は倒れ臥したままぴくりとも動かない。すると、突然ウィルは何も言わずに上着を脱ぎ始め、ブーツまで脱ぎ捨ててわずかの間にズボン一丁の姿になった。驚く船員たちを尻目に脱いだ服をディノに押し付けると、自分は夜更けの凪いだ海へと勢いよく飛び込んだのだった。威勢のいい音と共に水飛沫が上がると、それらは月明かりに照らされてダイヤモンドのように輝いた。
「おい!?」
ウィルは熟練した泳ぎで少女のもとへ駆けつけると、小舟のへりをつかんで転覆させないように慎重に誘導しながら船へと泳ぎ戻ってきた。ウィルの決断は素早く、あっという間の出来事だった。
「おい、ぼけっとしてんな、梯子を降ろせ」
船の下でウィルが怒鳴るとそれまで酒を片手にぽかんとしていた船員たちが慌ただしく動き始め、間もなく縄梯子が彼の目の前へ落とされた。ウィルは小舟に乗り込み、意識のない少女を左手に抱えると船へと登りはじめた。彼につきまとう水滴が少女の衣服をじんわりと濡らす。そして彼は梯子を登り終えると、滴る海水で水溜まりを作りながら、しかし少女をそれで濡らさないように注意を払って甲板に寝かせた。
船員たちが興味津々に集まってきて少女を覗き込む。少女はまだ幼く、その面立ちからはまだ大人になりきれていない純真さが漂っていた。水色の艶やかな長い髪は無造作に投げ出され、長いまつげはぴくりとも動かない。その白い肌は光を反射して夜の海にも淡く浮かび上がっている。繊細な模様があしらわれた上質な絹のドレスは少女を守るようにまといついていた。金の首飾りに印されたクジラに月光が跳ねた。
「死んで……?」
「いや、息はある。リリィはいないか」
濡れて額に張り付く髪を掻き揚げながらウィルは大声で誰かを呼んだ。
「何?」
船員を掻き分け現れたのは、薄茶色の髪をポニーテールに結い上げた、落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。
「こいつ、お前の部屋に寝かせといてくれ」
訝しげな表情をしたリリィに、ウィルは目線でよく見ろ、と合図する。促されるまま少女を見つめると、彼女は何も言わずに少女を両腕で抱え上げた。
「一人で大丈夫か」
「冗談よして。……ちょっと、みんなどいて」
リリィの声に慌てて船員たちは道を空けた。そうして肩まであるしっぽを揺らしながら彼女は船の一室へ姿を消したのだった。
***
「キャプテン、本当にあの子、生きてるんですか?」
「女を船に乗せるなんて、悪いことが起こるんじゃないか」
「あんな可愛い子久々に見たぜ。セイレーンか何かか?」
「セイレーン!? そんな化け物乗せて船が沈んだりしたら……」
不安そうに騒ぎ立てる船員たちに、ウィルは彼らを鋭く睨みつけ、重みのある声で一喝した。
「馬鹿野郎共、ちょっと黙れ」
途端にうるさい声はぴたりと止み、夜の静寂が訪れた。ウィルはみんなが黙ったのを確認すると、声のトーンを普段通りに戻して続けた。
「お前らも見ただろ、あの子はただの女の子だった。お前たちは息があるのにあんな小さな子を見殺しにするっていうのか? そもそも女ならこの船には既にいるだろーが。不幸が起こるって心配するのは遅いぞ」
ウィルは船員たちの不満を気にする様子も見せず、飄々と言ってのけた。
「……それに、お前らも見ただろ?」
ウィルの真剣な表情と静かな声に、張り詰めた空気の中で船員たちは次の言葉を待った。
「あいつは……相当、かわいい」
その言葉を聞いた船員たちは、呆れ返った者と顔をしかめた者と首を傾げた者とうっとりした者と、様々であった。
「こう野郎ばっかりじゃあ華も欲しくなるってもんだろ、なあ」
そう冗談めかして言ってやると、その彼の雰囲気にほだされた者は共に笑い、理由なんてそんなものかと満足したようだった。
「みんなちょっとは驚いたかもしれねえが……もとから俺が変人だって、皆知ってるだろ?」
「うん、キャプテンは変わってるよ」
「普通鳥が”渡り屋”やろうなんて考えられねーぜ」
ウィルの近くにいたクルーがはやし立てると、彼は悪がきみたいににやりと笑った。
「ばかやろう、その変わりもんについてきてるお前らの方が変わってんだよ。おい、もういい加減宴会に戻ろうじゃねえか。せっかくの月夜がもったいないだろ」
それもそうだと再びどんちゃん騒ぎを始めた船員たちをウィルは楽しげに見つめた。そして彼は船で唯一医術をかじっているブランという男を呼んでリリィと少女がいる船室へと入っていったのだった。
船室のドアを開くと、少女は決して柔らかくはないベッドに寝かされていた。リリィはちょうど少女に毛布をかけてあげているところだった。
「様子はどうだ?」
ブランが静かにドアを閉め、ウィルはベッドの傍に置いてあったイスに乱雑に腰を下ろした。
「確かに、息はあるようだけど……。ブラン、見てやって」
ブランは静かに頷いた。彼の動きに合わせて黄金色のさらさらした髪が音を立てて揺れる。それは秋の日差しに輝く麦畑を連想させた。ブランは少女のそばへやってきて、その細い腕で少女の状態を確認していた。
「気絶しているだけ、だと思います。健康状態もさほど悪くないし、頭を打ったりしているのでなければそのうちちゃんと目覚めるのではないかと」
「そうか。助かった」
ウィルはブランにお礼を言うと、次にリリィの方に向き直って真剣な表情で問いかけた。
「こいつ、何者だと思う?」
彼女は目を伏せて動かない少女をちらりと見た。整った容姿と身じろぎ一つせずに横になっている姿はまるで人形のようだった。
「少なくとも平民ではないでしょう。こんなドレスを着れるのは貴族階級の者ね」
リリィの返答にウィルの表情は一層険しくなった。
「俺もそう思うんだが……。もし俺の記憶違いじゃなかったら、大変なことになったぞ」
リリィはその意味を計りかねて訝しげに首を傾げる。
「どういうこと?」
ウィルは溜息をつくと、疲れたように首を振って答えた。
「いや、確証はないし本人の口から聞いた方がいいだろ」
そう言うとウィルは今度は座ったままブランを見上げた。すると何を言われるのかわかっていたというように彼は頷いた。
「僕、この子が目覚めるまで見てますよ」
「ああ、お前が見ててくれるっていうんなら安心だ。頼んだぞ」
ウィルは立ち上がってブランの肩を軽く叩いた。
「俺はそろそろ戻る。いい加減ばか騒ぎも終わらせねえと。…そうだ、リリィはどうするんだ? もう寝るか?」
「もう少しこの子の様子を見てるつもりだけど」
リリィはどうして、と不思議そうに答えた。
「お前のベッドを使っちまったから、寝たくなったら俺のを使えばいい。俺は今晩は見張り番で起きてるから気にすんな」
目をぱちくりしたリリィだったが、すぐに少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「……ありがと、それじゃ眠くなったら使わせてもらうわ」
そんな二人の会話を聞いていたブランがぼそっと呟く。
「なんか、夫婦みたいですよねえ」
「なんでだよ、リリィは大切な仲間だろ」
それを聞いたウィルは笑ってブランの薄い背中を叩いたが、力の弱いブランは少しよろけてしまい危うくつまずいて転んでしまうところだった。
「じゃあ、二人ともあんまり無理すんなよ」
そう言い残すとウィルは部屋から出ていった。扉を開けた瞬間、遠くからにぎやかな声が入り込んできた。まだ宴会は続いているようだ。
「早く目が覚めるといいですねえ……」
「そうね」
ブランが少女を見つめながらぽつりとつぶやくと、リリィもそちらに目をやって答えた。
もうしばらくしたら、甲板の彼らも静かになるだろうか。波は優しく、穏やかな夜更け。船室の窓からはちみつのように甘く月の光が差しこんで、少女をあたたかく照らし出す。
(110921)