翌日の早朝、奈菜乃は恐る恐る隣の寮室をノックした。反堂深鈴の部屋だった。
死んでも死なない世界であり、死んだときの記憶は夢と錯覚するか覚えていないかだと言われても不安なものは不安だった。
しばらく待っても物音一つしないので、再び扉を叩く。それを繰り返しているうちに鍵を外す音が聞こえて、深鈴が顔を覗かせた。寝起きのようで、少々眠そうにしている。
「反堂さんっ……!おはよう、昨日、変なことあった?」
「おはよう。朝早くに何の用事かと思えば……。急に何なのよ。変なことなんてなかったと思うけど」
「じゃ、じゃあ変な夢とか、見なかった?」
「夢なんて覚えてないわよ」
奈菜乃はあからさまに安堵の表情を浮かべた。それを見て深鈴は不信感を露わにする。
「与成さんって変な人。昨日は学校が終わったら有中神社の草取りに行ったくらいね。……あら、そういえば、私どうやって帰って来たのかしら」
「反堂さん!」
彼女にこのまま続きを考えさせてはいけないと思った。覚えていないならそれで十分ではないか。無理に嫌な思いをさせることはない。
「あの、」
ごめんなさい、と謝ろうとして、何も言えなかった。なぜ謝るのか。何に対して謝るのか。無言のまま、しばらく時が止まった。
「……何?」
深鈴の口調からは苛立ちが嫌というほど伝わってくる。
「あ、の、……今日の朝ごはん、楽しみだね」
深鈴は顔をしかめると、「そうね。用が済んだのならもういいかしら」と扉を閉めてしまった。
とにかく彼女の無事が確認できてよかった。覚えていないようだからそこまで気に病むこともないだろう。ただ、昨日繚に刺されたことが原因で短気になったわけでないのならいいけれど。
部屋で身嗜みを整えながらそんなことを考え、繚のことを思い出して身震いした。
あの後どうやって帰ったのか、奈菜乃もよく覚えてはいない。気付いたら自分の部屋にいて、布団をかぶって震えていた。絶対的な狂気を前に感じた、言いようのない恐怖が、足元から這い上がり巻きついて離れなかった。そうして繰り返し思い出すのだ。ナイフの冷たい感触、繚を突き飛ばしたときの振動、石段を染め上げた鮮血、無慈悲な風の音を。
正当防衛とはいえ、人を殺してしまった。死なないとはいえ、自分の手で人を殺めてしまった。ここが有中町でないのなら、一つの人生を奪っていたのだ。その人が感じる喜びも悲しみも、その人がいることで生まれる幸福も不幸も、自分の手が刈り取ってしまった。この腕はいとも簡単にそれができるのだ。
彼女を締め上げるこの恐怖には、相手が犯罪者だったなどという言い訳は効かなかった。
何度もどす黒い波を頭から被り、連れ去られてしまいそうだった。誰かに許されたかった。
唯一救いになっていたのは、ここが"有中町"だということだった。決して彼は死んでいない。その上、ここには警察が存在しない。捕まって牢屋にぶち込まれる心配はなかった。
人を殺めたことに対する罪悪の他にもう一つ、恐れているものがあった。繚からの報復だ。奈菜乃にはここがどんな場所で彼がどんな人なのかだいたいわかってしまった。以前のように笑いかけてくれることはないのだろう。
恐らく繚は奈菜乃のことを恨んでいるはずだ。彼のことだ。どんな救いようのない仕返しが待ち受けているだろうか。
できれば二度と会いたくないが、学校に行けば嫌でも顔を合わせることになる。そのことを考えるととにかく体が重くなった。足枷でもつけているかのようだ。
朝食の時間にはまだ随分と早いが、すっかり身支度を整えた奈菜乃は、ごろりとベッドに横になる。このまま腹が痛いと言って学校を休んでしまおうか、などと考えた。事実、だんだんと胃が痛くなってきたような気もする。
そんなとき、部屋にノックの音が響いた。何事かと扉を開けると、立っていたのは眠そうにしている寮の管理人だった。
「与成さんにお客さんが来ているんだけど。……与成さんも彼も、ずいぶん起きるのが早いのね」
そう言って案内された先には、けろりと涼しい顔をした繚が立っていた。
奈菜乃と繚は二人連れ立って、朝もやの中を歩いていた。湿っぽくひんやりした白がまとわりつく。
奈菜乃は内心怯えていた。いつ振り向きざまにナイフで刺されるかもわからない。一定の距離を取りつつ、慎重に繚の様子を観察しながら後を歩いていた。
ほどよく人のいないところまで歩くと、繚はくるりと向きを変えて奈菜乃と向き合う。奈菜乃は、今か、と緊張を走らせた。
「与成さん、寝てないでしょ」
「え」
「くまができてる。あと、顔色も悪い」
繚は自分の目元を指して言った。
奈菜乃は、誰のせいでこうなったと思っている、という言葉を飲み込んだ。妙に刺激して怒らせては大変だ。
「いちいちびくびくしないでくれるかな。言っとくけど、俺は怒ってもいないし恨んでもいない。まあ、与成さんに殺されたせいできみが痛みを堪えつつも泣き叫ぶ姿が見られなかったのは残念だけど」
奈菜乃は背筋が寒くなった。あのまま誰も来なかったら、今頃どんなトラウマを植え付けられていたことだろうか。
「恨んでないって、嘘でしょ」
「本当だよ。もし恨むとしたらきみに腕力で負けたとかそのくらいかな。それもだいたい原因がわかるからまあいいんだけど」
「原因って、そんなものあるの?
火事場の馬鹿力ってやつじゃないの」
「そう思うんならそれでいいけど。俺はこの町の不思議な法則のせいだと思うね。与成さん、七不思議の三つ目は?」
「……えっと、『学校で殺された男子生徒の脳みそのホルマリン漬けが理科実験室にあり、それを壊すと呪われる』だっけ」
「そうそう。わかりにくいよね、これ。たぶんさあ、この町では悪事を働こうとする者に対して不利な状況が降りかかるようにできてるんだよ。実際に俺、有り得ないだろってタイミングで何度も死んだしね。それを偶然と思うか法則と思うかは勝手だけど」
二人の間を白いもやが流れている。お互いの輪郭線さえ曖昧だ。
「俺を殺して、警察がなくてよかったって思った?」
ドキリとした。身に覚えがあった。しかし彼の前で肯定するのが癪だったので無言で繚を見つめる。
「警戒することなんてない。正当防衛でも人殺しは人殺しだ。けど、咎める人なんてだあれもいないんだよ。犯した罪は裁かれない。小さな過ちのせいで与成さんの人生に傷がつくこともない。よかったじゃないか」
咎める人はいない、ここでは罪を裁かれない――ゆらゆらと意識が揺れた。真っ白な朝もやが混ざり合い、視界を掬い取らる。彼の甘い言葉が繰り返し頭の中に響いて、ゆっくり沈んでいく。
けれど本当にそれでいいのだろうか。そんな疑問が湧いた。裁かれるということは、つまりわかりやすく赦しを得ることができるということではないのか。罪を認め、償うチャンスを他者から与えてもらえるのではないか。
この町では、住人がそれを罪だと認識するための基準は各人にある。積極的にそれが悪いことだと指摘してくれるものはなく、罪を認めるのも償うのも各人の胸の内によるものだ。赦しを与えてくれる者は誰もいない。ここでは基本的に、犯した罪に対して終わりのない自問自答にさんざん苦悩するか、それが罪であることを忘れるかのどちらかの選択肢しかない。漠然と、空恐ろしい場所だ、と思った。
相変わらず朝もやが漂っていて、まるで二人を閉じ込める籠のようだった。奈菜乃が言葉を返さないでいると、繚も黙った。彼女には、彼がこんな早朝にやってきた真意がわからなかった。
「で、わざわざ話に来た理由は何?」
「与成さん、どうしてるかなって思って」
奈菜乃は、信じられないという目で彼を見た。
「昨日あれだけやっておいて、そんなことよく言えるものね」
「失礼、昨日はちょっとはしゃぎすぎちゃったかな。俺のことあまりにも疑わないもんだから」
「平良くんが極悪非道で冷血なたぬきやろうでエロトフォノフィリアの史上類を見ない悪漢だってことはよーくわかりましたとも」
「そんな難しい言葉よく知ってるね。――それでは、改めて自己紹介いたしましょう」
繚は口調と佇まいを改めると、英国式の洒落たお辞儀をひとつした。
「俺の名前は平良繚、現在有中高校の二年生。得意科目は数学と国語、好きなものは映画観賞で嫌いなものは夏のうだるような暑さ、趣味は人殺しでございます。以降、お見知りおきを」
「ふざけないで」
「おや、これは手厳しい」
「趣味が人殺し?
理解できない。気が狂ってる」
「俺は理解されることなんて望んじゃいない。……いつからだったかな。俺はね、あれがないとダメなんだ」
そう言って彼は悪戯っぽく笑った。その色めいた表情にはぞっとさせるものがあった。ひどい不和だ。
「しかし昨日のチャンスを逃したのは本当に残念だったな。どうせ与成さんの残り日数は少ないだろ」
彼は舐めるように奈菜乃を眺める。悪寒が走り、即座に話題を変えることを選んだ。
「あの、平良くん。残り日数って、何なの」
「うーん、どうしようかな。でも俺も与成さんの正確な残り日数が知りたいしな。けど夜に女子寮にいるのはさすがにマズイよなあ」
「えっと、何の話?」
考える素振りを見せる繚に、奈菜乃はきょとんとした。残り日数という重要そうなキーワードを前に、話がよく見えない。
「与成さん、日付が変わるころに寮を抜け出して外に出て来られる?
女子寮のすぐ裏の物置のところでいいんだけど」
「全然話が見えないんだけど。夜に呼び出してどうするつもり?
昨日の腹いせに今度こそ私を殺そうって魂胆?」
「違うって。学校なんてリスクの高いところ選ばないよ。その気があるなら学外に呼び出すから」
『殺さない』とは言わないことに若干恐怖を覚えつつも、彼女も残り日数の話が気になっていた。寮の裏の物置なら大きな音がしたら誰か駆けつけてくれるはずだ。防犯ブザーを持って行けば、いざとなれば彼に変質者の汚名を着せることができるかもしれない。
寮では基本的に深夜の外出は禁止されている。しかし奈菜乃は、管理人に見つからずに外に出ることができる抜け道のようなものがあることを知っていた。
「俺の言うことがきけるなら、『残り日数』について教えてあげるから」
彼の教えてくれることが嘘だという可能性は十分あった。しかし、この町の真相を知るために、彼以外に頼れるものはなかった。
「たぶん、大丈夫だと思う……」
「じゃあ、今夜二十三時五十分に、部屋備え付けの時計を持って物置まで来て。時計は絶対に忘れるなよ」
その日もいつも通りに一日が終わる。夕食やお風呂、授業の予習も終えて、あとは寝るだけとなった。繚が指定した時間は近い。奈菜乃は、持ってくるようにと念を押された時計を手にとってまじまじと見つめた。別段妙なところのない、ごく普通のデジタル時計だ。奇妙に思いつつも時計と防犯ブザーを布製の簡素なバッグに入れて、こっそりと部屋を出た。
外へ出るのは問題なく済んだ。夜の空気がひやりと頬や髪を撫でる。
星が遠くで競い合うように輝いていた。金や銀のスパンコールが夜空に縫い付けられているようだ。人の気も知らないで、と奈菜乃は星空を睨む。星たちは我関せずと輝きを放っていた。
寮の裏の物置に着くと、そこには既に繚がいた。彼は物置の壁に寄り掛かって、ぼうっと星空を眺めていた。その横顔からは孤独な黒い星を連想させて、まるで知らない人のようだった。声をかけるのが躊躇われて立ち止まると、繚は奈菜乃に気がついたようで目が合う。その瞳には、光さえも閉じ込めてしまう闇が延々と広がっていた。
「与成さん。ちゃんと来たんだね。もしかして待ちぼうけになるかと思っていたよ」
「失礼な。尻尾巻いて逃げたりなんてしないから」
繚は軽く笑った。含みのあるいやな笑みではなく、年相応の少年らしい笑顔のように見えた。
時計は、と聞かれたので取り出して見せる。ついでに防犯ブザーも見せつけると、「これは大変だ。変なことできないね」と笑った。
彼が十二時まで待って欲しいと言うので、二人並んでぼんやりと星空を眺めていた。音はなく、静かだった。星の瞬きが聴こえてきそうだ。昨日、彼に殺されかけて、そして彼を突き落としたとは思えない穏やかさだった。
不意に、奈菜乃が口を開く。
「平良くん。……全部、嘘だったの?」
「全部って?」
「とりとめのないお話をしたこととか、親切にしてくれたこととか、助けてくれたこととか」
それを聞いた繚は一瞬目を見開き、そして盛大なため息をついた。
「与成さん、馬鹿だよやっぱり」
突然の罵倒に奈菜乃はむっとする。
繚は、先ほどの少年のようなあどけなさはどこへ行ったのか、冷たく刺さるような声色をしていた。最近の彼がよく見せる、何もかも知っているかのような大人びた声だった。
「それを俺に聞いてどうするの。俺がイエスと答えればそうだって信じるんだ?
進歩しないね。いい加減俺の一挙一動に縋るような真似やめなよ」
「縋ってなんかない」
「どうだか。やっぱり与成さん、俺のことが好きでしょう。どこかで信じたいと思ってる。あれだけされてまだそんなこと思えるなんて、俺にはきみのほうが理解できないけどね」
「好きなんかじゃないったら」
「はいはい」
縋ってなんかいない、信じたいと思ってなんかいない。何度も心の中で反芻した。
ただ、石段に広がっていく赤い染みがフラッシュバックするたびに、罪悪感と恐怖に苛まれ、夕暮れの焼けた空を見るたびに、彼が自分を助けてくれたことを思い出すのだ。それらが楔となっているだけなのだ。
彼は、ここでは罪は裁かれないと言った。けれどそんなものに甘えてしまってはだめになる気がしていた。けじめが必要だった。
「私、あなたを更生させる」
無数の星が瞬き、繚もまた目をぱちくりとさせた。
「人殺しなんてやめさせる」
それを聞いた繚は、一瞬の間を置いて盛大に笑い出した。人が来てしまうのではないかと心配になるほどだった。
「冗談だろ?
どうしてそんな発想になる?」
奈菜乃は憤慨した。自分の中では至極当たり前の結論だった。
「それがあんたの正義なの?」
繚の黒々とした両目が彼女を見据えていた。じっと見つめていると吸い込まれそうになる。
奈菜乃は淀みのない決意を込めて頷いた。それは、彼が彼女を助けてくれたことに対する敬意と、彼女の犯した罪悪に対する償いだった。
「俺に、与成さんのこれからの人生を懸けるだけの価値はないと思うんだけど」
「私が私を許すためにそうするの」
「ふうん。与成さん、来世ではきっといいことあるよ」
「来世?」
「俺に関わるってそういうことだからね。辛くなったらいつでも逃げ出せばいい。安心しなよ、そのときは俺が嘲笑でもって見送ってあげるから」
無数の星たちが音もなく瞬きを繰り返す。その輝きは美しすぎて、作り物のようだった。
そろそろ時間だ、と繚は奈菜乃に寮の備品の時計を、見える位置に持つように言った。言う通りに時計を持つと、画面には23:58と表示されている。繚の指示はない。訝しみながらも、奈菜乃は黙って時計を見つめていた。
時刻は23:59に動き、日付が変わる、と思った瞬間だった。
時計は、00:00ではなく、01:03の表示に切り替わる。しかし、数秒後にはそれも切り替わり、何事もなかったかのように00:00の数字を映していた。
「ふうん。そうか」
繚は何かわかったような仕草を見せ、怪訝な顔をしている奈菜乃に対して解説を始めた。
「わかった?
今のが与成さんがこの町にいられる期限だ。右の数字がゼロになったときにその人は町から出られるんだ。この数値は一日ごとに一ずつ減っていく。また、人助けだとか、いわゆる"良いこと"をするとその内容によって数値は減っていく。逆に、"悪いこと"をすると数値は増えていく。左の数値は"悪いこと"をした回数だ。どっちかの数字がカンストしたり、一定期間以上この町を出られないと、――これは実証しようがないけど、おそらく最悪の形で町を追い出されることになる。……言っておくけど、これは俺が実験して知り得た情報だ。間違っているものがあっても何癖つけないでくれよ」
一体全体誰がこんなルールを予測できただろうか。嘘か本当かはわからない。けれど、他にあてにできるようなものもない。一応は検証可能な事実を、あえて嘘をつく必要性もあまり感じられない。まあ、彼なら意味のない嘘でもつきそうなものだが。
「つまりさ、与成さんはあと三日しかこの町にいられないってこと」
あと三日。奈菜乃は頭の中で繰り返した。あと三日で、何ができるだろうか。彼に人殺しを止めさせるといったものの、その具体的な内容は全く浮かんでいなかった。しかも、彼の趣味が相当根深いものだということは肌身に感じていた。
三日で具体的な策を考え、実行に移さなければならない。日数的に失敗は許されず、その後の経過を知ることもできない。本当に可能なのだろうか。
「残り日数を増やすことはできるよ。与成さんが罪を犯せばいい。万引きでも殺しでもさ。そうやって調整されたら俺は与成さんより先にこの町を出ることになるだろう。俺が出ていくまで監視していればいいさ。それがきっと一番確実で簡単だろう?」
毒を含んだ甘言が降り注がれる。それに手を出してはいけない。口にしたら最後、戻ってこられなくなるだろう。
奈菜乃は彼を強く睨みつけた。
「その選択肢はありない」
「そう。俺は与成さんの気が変わっても馬鹿にしたりしないよ。よく考えたらいい。何を天秤にかけるのか。何を取って何を捨てるのか」
繚は、おやすみと告げると背を向けた。慌てて奈菜乃は声をかける。
「平良くん。平良くんの残りの日数はいくつなの?」
彼は足を止め、くるりと振り向いた。
「教える義理はないね」
そう言い捨てると、今度こそ夜に紛れて消えてしまった。
(2013/10/24) |