十.土曜日:0101






 

 彼に殺しをやめさせるために、何が必要なのか。ずっと考えていた。
 警察があればなど、考えるだけ虚しいだけだ。なにより彼女自身、その恩恵を受けたのだから。
 彼の趣味は、誰かがやめろと言ってやめられるようなものではない。奥深くまで根を張った彼の嗜好を改めさせるのは三日では無理だろう。彼をどこかに拘束してしまうという手もあるが、彼女一人で何とかなることではなかった。ではどうするか。
 やめなければならない状況"をつくるのが最も実現に近いような気がした。人間社会を生きる上で、周囲の人間からの評価というものはときに人をも殺すのだ。

 彼は、『調整』という言葉を使っていた。おそらく彼は自分が有中町にいられる日数を調整しているのだ。自分の趣味嗜好のために人を殺して、かさんだ点数を"良いこと"をして減らしている。決して強制的な追い出しにあわないように、計算づくで優等生を振舞っているのだ。彼が善行を尽くすのは、つまるところそういうことである。とんだ茶番だ。
 彼はそうして周囲から『優等生』『良い人』と評価されるようになったが、その信頼を剥ぎ取ってしまえば"調整"を行えないのではないだろうか。誰だって快楽を求めて人を殺すような気違いには近づきたくない。

 それと追い出しに関して、『おそらく最悪の形で』と彼は言った。彼のような人間が、どんなリスクを背負うかもわからない不安定な状況に手を出すとは考えにくい。日数の調整ができないのならば、彼は人殺しをやめずにはいられないだろう。
 彼が人殺しをやめなければならない状況を作り出すためには、彼が善行を行えなくすれば良い。そしてそのためには、彼が優等生ぶって築き上げた信頼を崩す――彼が快楽殺人者だと知らしめる必要がある。
 誰だって頭のおかしい犯罪者には近寄りたくない。まして、善人だと思っていたのに利用されていただけだとわかったときの失望は大きく、糾弾、吊し上げは免れないだろう。
 だが、この方程式はほとんどが推測で成り立っている。確証はないが、やらないわけにはいかない。自分の人間観察能力と感覚を信じるしかなかった。

 残る三日でやらなければいけないことは、彼がナイフを振りかざすその瞬間を、どうにかして証拠として押さえることだ。
 たった一人でどこまでできるかはわからない。けれど、誰にも助けを求めることができなかった。証拠もなく繚が殺人鬼だと言いふらしても逆に不信の目で見られるだけだし、だからといって自分のことを信じてくれそうな友人を、珠姫や陸をこんな血生臭いことに巻き込めるわけがなかった。

 他にも不安はあった。この町ではないどこか別の場所で、彼が殺しを続けないと言い切れるだろうか。奈菜乃はそんな重たい心を、町の外にはきっと警察があるから大丈夫だと、強く自分に言い聞かせて抑えつけた。
 三日したら奈菜乃は町を出ることができると、彼は言っていた。有中町を出た後はどこへいくのだろう。現実離れした状況に、町の外の世界など本当にあるのか、今となっては疑わしかった。





 それから三日間、奈菜乃はできる限り繚の行動を監視した。証拠や手掛かりをつかむために繚の部屋に忍び込むことも考えて、彼の外出中に部屋を訪れてみたが、案の定鍵がかかっていて入れなかった。彼の部屋に侵入するのは、奈菜乃一人の力では到底実現できそうになかった。
 だから、とにかく怪しい行動がないか見張り続けた。放課後には気付かれないよう慎重に彼の後をついて回り、夜は夕食が終わったころから明け方近くまで男子寮を見張る。毎晩茂みに身を隠し、男子寮から出てくる人影がないか全神経を集中させてじっと見つめていた。冷たく湿った夜の空気からは土草の香りがして、どこか物寂しく思わせた。本当にこんなことをして意味があるのか、もっと良い方法があるのではないか、そんな迷いが一晩中脳内を駈けずり回っていた。そうして辺りがぼんやり明るくなりはじめるころに、物音をたてないように自室に戻って、朝食の時間まで泥のように眠りこむのだった。
 そんな生活を二日間繰り返したが、収穫は一つもなかった。珠姫と陸は普段と様子が違う奈菜乃を心配したが、奈菜乃は「何でもないから気にしないで」と機械のように繰り返すだけだった。

 そして、最後の一日となった。夜の学校はしんと静まり返っている。このまま、何の証拠も得られずにこの日が終われば、自分はどうなってしまうのだろうか。いや、どうにもなりはしない。自分自身へのけじめをつけることはなく、彼との関係も曖昧なまま、この町を出るだけだ。それの何がいけないのだろうか。
 そんな逃げ道が心の奥からちらりと覗いて、胸元を握りしめた。例えそれが一番楽な道だとしても、そちらへ逃げてしまえば、与成奈菜乃という人間が胸を張って生きていくのに必要なものを失くしてしまうような気がした。しかし、そのために罪を犯しても、今度は人として胸を張って生きていけなくなるような気がした。握りしめる手のひらに力がこもる。

 そんなとき、男子寮の裏口で人影が動いた。はっとしてその影を見つめる。上下黒のウインドブレーカーを身につけていて、ランニングに行くスポーツマンのようにも見えるが、奈菜乃には確信できた。あれは自分がずっと待っていた人物だと。
 時刻は夜九時を回ったころだった。



 奈菜乃には尾行の経験などない。それでも勘付かれないように、見失わないように、慎重に後をつけた。緊張のせいか、夜風は冷たいのに妙な汗をかいた。通りには、まだわずかに人が歩いている。
 繚はゆったりとした足取りで、酔っ払いがふらふらしている中心街を通り抜け、複雑に入り組んだ小道を進む。気付けば人気のない静かな路地裏だった。暗闇がじっとりと覆いかぶさってくる。このまま尾行を続けたらばれてしまう、そんな迷いが奈菜乃の歩みを緩め、その一瞬で彼の背中は夜に紛れて見えなくなってしまった。
 奈菜乃は、立ち止まって前方へ目を凝らした。急いで追いかけて尾行に気付かれては困るが、分かれ道が何本もある路地だから、このままではすぐに見失ってしまうだろう。進むしかない。用心しながらしばらく歩いていると、どこかの小道を通りすぎたとき、突然後ろから服を引っ張られ、振り向く前に視界を手のひらで隠された。

「だーれだ」

 聞き覚えのある声だった。

「……平良くん、」
「当たり」
「じゃなくて、な、何のつもり」

 身体が強張った。気付かれないように気を付けたつもりだった。視界はまだ闇の中で、彼の指先はじんわりと冷たかった。彼は耳元で低く囁く。

「声が震えてるよ。気付かれてないとでも思った? 稚拙だね」
「うるさい」
「俺が誰か殺しに行くと思った? そんなわけないじゃないか。俺の立場に立って考えてみればすぐわかるだろ」
「うるさいって」
「俺のために三日間費やしてくれてありがとう。無駄足ご苦労さま」
「うるさいってば!」

 ふつふつと怒りが生まれ、疲労と苦労がごったまぜになって腹の底で煮えたぎっていた。目隠ししている繚の手を思い切り払いのけて、振り返らずに中心街に向かって走り出す。悔しさでいっぱいだった。
 路地を走り抜けて、明るい街路へ戻ってきた。後ろを確認する余裕はなかった。さっきよりも人通りは減っていて、歩いている人はほとんどいない。しかしタイミング良く数メートル先からやってくる二人組の人影があった。どちらも中年男性で、顔を真っ赤にしてたどたどしく歩いている。居酒屋で何杯かひっかけてきたのだろう。他に人はいない。奈菜乃は二人に向かって走った。

「助けてください!」

 表情筋がゆるみきっている二人の中年男性は、必死の形相で立ち塞がる奈菜乃を見てぱちくりさせた。

「殺人鬼がいるんです! 私は何度も現場を見ました!」
「さ、さつじんきぃ?」

 中年男性はぽかんと口を開けた。突然のことで理解が追いつかないようだ。

「うちの学校の生徒で、平良繚って名前なんですけど、」

 奈菜乃は早口でまくしたてていたが、突然背後から口を抑えられて、残りは言葉にならなかった。

「やだな、与成さん。喧嘩の腹いせにそんな噂流さないでよ。怒ったんなら謝るからさ」

 繚だった。整った笑顔を浮かべて、立っていた。

「すみません、ご迷惑おかけしました。俺が彼女を相当怒らせちゃったみたいで。普段こんなことをする人じゃないんですけど。きちんと話し合って仲直りします。ご気分を悪くされてしまったと思います。本当にすみません」

 繚は丁寧に頭を下げた。中年男性は繚の礼儀正しい対応に好感を持ったのか、彼の言葉を信じたようだった。奈菜乃は必死に目線で彼の嘘を訴えたが、もともと二人とも酒で判断力が鈍っていることもあり、中年男性がそれに気付くことはなかった。二人は、もう遅いんだから遊んでないで早く仲直りして帰れよ、と残して歩き出す。彼らは、いやー青春ですかね、俺の青春時代はね…とすぐに自分たちの世界に戻り、楽しげに去っていった。
 その背を見送ると、繚は抵抗する奈菜乃を強く引っ張り、路地裏へ引きずり込んだ。奈菜乃は壁に突き飛ばされ、力が抜けて座り込んでしまった。
 さっきいた場所とは異なるが、同様に薄暗く人気はない。音はなく、この町には誰もいないと錯覚させる静けさだった。

「馬鹿だなあ。そんなことしても与成さんが変な人に見られるだけだよ。俺だって日数調整のためだけに外面整えてるんじゃないんだよ」

 奈菜乃は唇を噛んだ。そんなことはわかっている。あれは最後の悪あがきのつもりだった。
 月の光が薄ぼんやりと辺りを照らしていた。繚は眉を下げて笑う。

「ねえ、どうするの与成さん」
「どうするって何よ」
「わかってるだろ。明日には与成さんはこの町から強制的に出ていくことになるよ。たぶんもう会えないだろうね。その手を汚してここにいられる日数を伸ばすか、きみ自身のけじめから尻尾巻いて逃げだすか。自分を許すためだって、そう言ったけど、まさか自分に課した約束も守れないような情けない人じゃないよね」
「……でも、言ったでしょ。罪を犯してまで日数を伸ばすって選択肢はないって」
「うん。まあそう言うと思ったけどね」

 繚は拍子抜けするほどあっさりと引き下がった。自分のことを見逃してくれるのだろうかと、少しの安堵と情けなさでいっぱいになった。結局、口先だけで何も変えられなかった。
 やり場のない悔しさと怒りを噛み締めていると、繚は何か考える仕草をして首を傾げた。

「与成さんと仲が良かったのは、天野さんと境さんだったよね」

 突然何を、と口を開きかけて、嫌な想像が脳裏をよぎった。一瞬で全身の体温が下がる。冷水に浸かったようだった。

「ちょうど明日は誰かで遊ぼうかと思ってたんだ。どっちにしようかな。簡単に殺しちゃったらつまらないし、ゆっくり苦痛を与えていこうかな。絶望した顔も、恐怖で歪んだ顔も、助けてって泣く顔も、どれもいいよね。楽しみだな」

 奈菜乃は奥歯を噛んだ。握りしめた拳に力が入り、爪が食い込んだ。

「やめて。二人は関係ないでしょ」
「関係ない? 関係ないのは与成さんだろ? だって明日にはここにいないんだから。きみがここに残るって言うんなら考えてもいいけどさ」
「この外道」
「なんとでも」

 繚はおもむろに懐からナイフを取り出す。反射的に彼女は身構えた。しかし彼女の予想に反して、彼はそれを彼女の目の前へ放り投げてきた。金属的な音が響く。

「どうする? このまま知らないふりをして自分だけ安全なところに逃げ帰る? それともまだここに残って自分へのけじめと友達を守る?」

 奈菜乃は沸騰し続ける怒りに任せて繚を睨みつけた。握りしめた手のひらが汗ばんでいる。

「今ならきみに殺されてあげるよ。きみの隙に付け入って、追い詰めて、脅して、弄んでいる俺が憎いだろう? 簡単だよ。そのナイフで俺の頸動脈を切ればいい」

 彼の言葉が紡がれるにつれて、だんだんと思考が麻痺していく。何が悪いことで何が良いことなのかわからない。どうしたらいいのかもわからない。ただ、友人たちをひどい目に合わせたくなくて、彼女たちを見捨ててのうのうと生きることなんてできなくて、彼が憎くて、視線を落とせばナイフが輝いていた。心の奥底から黒い感情が顔を覗かせる。
 ナイフを取るのが怖かった。でも、珠姫と陸が殺されてしまう方が怖かった。伸ばした手は震えていた。震えた手で、ナイフをつかんだ。それは彼女の小さな手に余るほどずっしりと重く冷たい。繚が笑うのが目の端に見えた。
 彼は羽織っていたウインドブレーカーを脱ぐと奈菜乃の肩にかける。そうして彼女の目の前にしゃがみこんでナイフを握っていない手を取り、自分の首を触らせた。血管が脈打ち、一定のテンポを刻んでいる。触れた先は温かく、そこで初めて奈菜乃は自分の指先が冷え切っていることに気付いた。

「頸動脈はここ。思ったより深いところにあるから、首を落とすくらいのつもりでね。出血は量も勢いもあるから返り血に気をつけて。それ、着た方がいいよ」

 そう言って、うっとりと目を細めて、艶やかに笑った。怯えを見せるどころか、その声色からは喜びと興奮が滲み出ていた。

「躊躇しないでね。俺も痛いのは嫌だから」

 毒蜘蛛のように狡猾な男だった。あちこちに罠を張り、相手の心を操って、自由に飛んでいると思いきや毒に塗れた蜘蛛の巣に誘導されている。気付いた時にはがんじがらめになっていて逃げ出すことは叶わない。ずる賢くて、独占欲が強くて、とにかく厄介な男だった。




(2014/3/1)


 

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