八.火曜日:0005






 

  翌日の放課後、奈菜乃と繚は有中神社へとやってきていた。
 相変わらず木々は鬱蒼と覆いかぶさり、葉を擦り合わせて二人の来訪を歓迎していた。ビリジアンの影が彼らを囲い込んでいる。二人は、寮から借りた自転車を古ぼけた鳥居の脇に停めた。

「どうするつもりなんだ?」
「とりあえず、様子を見に行く。私はこの町から早く出たい。神社の化物が原因なら、外に出る方法だってここにあるはず」

 繚が何かぼやいたが、風の音に攫われて聞こえなかった。
 奈菜乃は白茶けた鳥居をくぐり、石段にこびりついている苔を踏む。石段は急で、一部は崩れていた。左右は雑草がもうもうと茂っている。石段の隙間から雑草が生えていてもおかしくはないが、不思議とそれは整然と佇んでいた。
 石段の頂上にある鳥居をくぐると、視界が開けた。そこは小ぢんまりとした広場になっていて、奥には人が一人か二人入れそうな程度の小さな社が鎮座している。作られてからどれくらいの年月が経っているのだろう。木板は朽ちかけ、しめなわは古びて垂れさがっている。周囲は相変わらず雑草と針葉樹に囲まれて薄暗い。

 神道には詳しくないが、社といえば、中にご神体が置いてあったりもしくは社そのものがご神体であったりして、それが依り代となって神が降臨するのではなかっただろうか。ではご神体を壊せばこの町の呪いも解けるのではないか。
 あるいは、陸の話によると悪霊が封印されているということだったから、壊したら封印が解けて今よりもひどいことになるかもしれない。繚の予想が本当で有中町が異空間ならば、ご神体を無下に壊してしまえば完全に有中町に閉じ込められてしまう可能性もある。

 しかし、何にせよどのような依り代なのか、どのような状況なのかは確認する必要がある。そこから次のヒントを得られるかもしれない。
 奈菜乃は古くなってなかなか開かない戸を、踏ん張ってほとんど強引に押し開けた。木屑がパラパラと落ちる。社の中はがらんとしていて埃っぽい。どんよりとした空気が滞っていて、長い間開けられていなかったことが想像できる。
 中に入るのには勇気が必要だったが、奈菜乃は息を大きく吸い込んで、一歩踏み込んだ。古く重たい空気がまとわりつく。中は外見のわりには広く、一畳より少し広いくらいだ。繚はうすぼんやりした光を背負いながら、中には入らずに社を覗きこんでいた。
 奈菜乃はこれまで神社でご神体を見たことがなかったが、置いてあるなら正面の一番奥だろうと歩を進める。繚も中へと入ってきたようだ。
 奥には開き戸がひっそりとあった。装飾がないシンプルなものだ。鍵のようなものがかかっていないか確認し、取っ手のクモの巣を払う。

「開けるの?」

 繚がそう確認してきたので、奈菜乃は小さく頷いた。どんなものが置かれているのだろうか。お札で全面を覆われた髑髏など出てきたらどうしよう。もしかしたら開いた途端に何かが起こって、大惨事になるかもしれない。
 彼女は漠然と不安を感じながら、ざらつく取っ手を握り、開けた。意外なほどあっさりとそれは開いた。
 後方の入り口から差し込む光を頼りに、開き戸の中を覗きこむ。奈菜乃が想像したようなことは何も起こらなかった。
 戸の中身はからっぽだった。

「どういうこと……」

 奈菜乃は呆然とからっぽの空間を眺めた。ここには何もいないのだろうか。それとも、依り代を必要としないものなのだろうか。そんな風に考えを巡らせていたときだった。

「どうもこうも、見たままだよ」

 繚はそう言うや否や、奈菜乃の足を払って転ばせたのだ。何が起こったのか理解したときには既に、奈菜乃は繚に組み敷かれていた。頭は入口側を向いているため、外の光が頭上に差し込んでくる。彼女は、内心怯えを感じながらも「どいてよ」と語気を強めた。

「あんたってさ、馬鹿だろ」
「何、」
「どうしてこんなに簡単に信じちゃえるのかなあ。俺、あんたの前で三人殺したのに」

 その口ぶりから、彼が言いたいことに気がついた。

「……嘘、ついたんだ」
「そ。神社の化物なんて嘘っぱちさ。俺は昨日の会話で三つ、嘘を言ったよ。あんたは疑いもしないでこうやってのこのことやってきたわけだ。……普通さあ、不信感とか持つって。それとも自分のことは裏切らないだろうって自信でもあった?」

 奈菜乃は言葉に詰まった。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、わけがわからなくなって、そんなつもりはないのに涙が浮かぶ。視界がぼやけた。

「何でそんなことしたの」
「あんたを試した。どこまで都合のいい理解者でいてもらえるか。結果は満点、というか百二十点だね。でもさあ、期待以上すぎたよ。あんたどうせ残り日数は少ないだろ?」
「何言ってるのかわからないんだけど。変なこと言ってないで早くどいて」
「わかんなくていいよ」

 繚の淡々とした語り口調がいやに不気味で心がざわついた。抜け出そうともがいたが、更に強く腕を押さえられて身動きが取れなくなる。

「この間のことはすごく幸運だった。あんたのおかげで、あれだけやっても加点どころか減点だ」
「何の話を、」
「俺、学校では殺さないようにしてるんだよね。優等生でいるためには仕方ないことなんだけど、やっぱり物足りなさもあるわけだ」

 彼は目を細めた。さながら獲物を品定めをする毒蜘蛛のようだった。
 このとき奈菜乃は、殺される、と直感した。理屈などなかった。自分の中で何かが崩れた瞬間だった。

 さっき繚が指摘したことが頭から離れない。彼の言う通り、どこかで自分のことを裏切らないと信じていた。こうして押し倒されて、身の危険を感じてようやく自分の抱いていたものが紙に描いた薄っぺらな幻想であると理解したのだった。
 自分が情けない。人を殺したその瞬間を見たのに、彼が鬼や悪魔でないとわかって気を許してしまった。人間とはそのように簡単にできているものではないというのに。
 人間とはただ一言"人間"とひとくくりにして良いものではない。外見は等しく哺乳類であっても、その中には世の中の森羅万象ありとあらゆるエネルギーがないまぜになっている。清らかな思いやりも、燃え盛る激情も、薄暗い妬みも、全てがより合わさって成り立っているのが人間だ。
 彼は鬼でも悪魔でもない。人間だ。密着しているところからあたたかな体温が伝わってくる。彼は血の通った人間だ。そして、人殺しだ。同族を殺して楽しむ狂った殺人犯だ。
 世間という湖の底に確かに蓄積されている悪意という名の泥が、渦を巻いている。上澄みで暮らす者には決して理解されない濁った水が、きれいな世界を流れているものを、地の底に引きずり込もうと手を伸ばしている。

 彼が自分のために笑ってくれたのも走ってくれたのも、全部嘘だったのだろうか。あの学校生活はすべて嘘だったのだろうか。親身なふりをして心の底では嘲っていたのだろうか。
 そう思うと、胸にナイフが突き立てられたような痛みが走った。その痛みは心身に広がり、力が抜けていった。
 奈菜乃は涙をこらえようとして顔を歪めた。しかしそれでも流れ落ちる涙を止めることはできない。次々と、透明な涙が伝い落ちていった。
 彼女に覆い被さる殺人鬼は、恍惚とその双眸を細めた。

「失意と絶望に落ちたとき、あんたがどんな風に泣いて、どんな風に命乞いするのか見てみたかった」

 そう笑うと、制服の裏地から先日のときと同じナイフを取り出し鞘を外す。灰色の刀身は、薄ぼんやりした光を集めて鮮鋭に輝いた。繚はその刃を奈菜乃の首元に押し当てる。一筋赤い線が走り、血が流れた。
 奈菜乃は顔を引きつらせる。彼が少し力を込めれば、首が落ちる。しかも彼のことだから楽に死なせてはくれないだろう。全身が恐怖に支配され、一層涙が零れた。
 このまま殺されてなるものかともがくも、うまく力が入らないのかそれともしっかり押さえられているのか、びくともしない。

「誰か、誰か助けて!」

 奈菜乃は力を振り絞って叫んだ。しかし、繚に慌てる様子はない。

「人がいるような場所じゃないだろ。だいたい人を呼んでどうするの。俺が二人や三人簡単に殺せないと思ってんの。数秒あれば事足りる」
「学校の生徒なら殺しにくいでしょ」
「どんな確率の話をしてるんだよ。そもそも関係ない人を与成さんの勝手な都合で巻き込んでいいの?」

 奈菜乃は、それをあなたが言うのか、という反論をぐっと飲み込んだ。こんなことに他の人を巻き込めないのは間違いなかった。
 それでも観念するのは嫌だった。ありったけの恨みを込めて、繚を睨みつける。

「いいね、そそるよ」

 艶っぽい呼吸が漏れる。期待に濡れた黒い瞳に狂気をはらませて、彼は軽く舌舐めずりをした。そうしてナイフを持つ手に力を込める。

「じゃあね。また明日」

 奈菜乃は、これでおしまいだと思った。ぎゅっと目をつむる。涙が零れ落ちていく。

「誰かいるの?」

 死を覚悟したそのとき、突然、声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。幸か不幸か、運命のいたずらを呪った。
 社に顔を覗かせたのは奈菜乃たちと同じ学年の反堂深鈴だった。暗がりで、恐らく二人の顔をはっきりとは見ていないだろう。しかし、それでも彼女は異様な事態に気が付き身を固くした。繚の動作は早かった。
 本当に一瞬だった。彼がいつ奈菜乃から離れたのかもわからなかった。地を蹴り風を切り、社の外に出たかと思うと、立ちすくんでいる深鈴目がけて一直線に飛び込んだ。急所を一刺しだった。
 ナイフを引き抜くと、返り血が制服を赤く染めた。深鈴は力なく地面へと崩れ落ちる。
 しかし同時に、奈菜乃は自由を手にしていた。逃げるなら今しかない、と立ち上がり駆け出す。奈菜乃が逃げ出そうとしているのに気付いた繚は、迎え撃つようにナイフを構える。
 勝算などなかった。ただがむしゃらに走り、繚の腕に飛びついた。彼の手に握られているナイフを落とそうと躍起になった。普通に考えて腕力で敵うはずがない。しかし火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。繚に振り払われることはなく、組みついたままの均衡状態が長く続いた。

 やはり一瞬だった。今だ、と思った。ほんのわずかにできた隙をついて、奈菜乃は思い切り繚を突き飛ばした。せめて転んでくれれば逃げ出すことができるだろう、そんな考えだった。
 そしてまた、偶然が重なる。どちらにとっても思いもよらない偶然だった。

 彼女が繚を突き飛ばした方向は、ちょうど彼女たちが登ってきた石段だった。もみ合っているうちに石段のすぐ近くまで移動していたようだ。繚の身体が宙に浮く。後方に彼を支える地面はない。
 繚は後方に落ちながら目を見開いた。驚いた表情には、先ほどまでの下劣な色はなく、ただ少年としてのあどけなさだけが残っていた。
 そのまま彼の身体は落ちていった。石段に打ちつけられ、鈍い嫌な音が響き渡る。鮮血が石段をあっという間に赤く染めた。雑草から赤い雫が滴る。
 風が吹き、ざあっと木の葉が揺れる。他に音はなく、静かだった。
 奈菜乃は呆然と座り込んだ。座り込んで、一つも動けなかった。動くことを許されなかった。知らぬ振りを決め込んだように、風が吹き抜けた。



(2013/10/15)


 

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