四.月曜日:0018






 


  今日の古典の授業は漢文で、古代中国の思想について触れられていた。

「孟子は、人間はだれでも他人の悲しみに同情する心をもっている、つまり人間にはもともと『善』となるものが備わっていると説きました。その上で、放置してしまえば悪行を行うようになるため、学問を修めることで、徳を高めたり悪行を抑える必要がある、と言いました。これが性善説です。
 また、孟子の性善説に反対して唱えられたのが、荀子の性悪説です。人間の本性は『悪』――ここで言う悪とは欲望のことですね――であるため、人が行う善とは、教育によって矯正されたものである。そのため、学問を修めることで礼儀を正す必要がある。これが性悪説です。
 みなさんは、人間の本性はどちらだと思いますか? まあどちらにせよ、学問は重要だということですね」

 奈菜乃は古典の教師のよく回る口をぼんやり眺めながら、この間のことを思い出していた。
 珠姫と陸は仲がいい。手を組んで奈菜乃をからかって遊ぶ程度には。タイプの違う二人だが、意外と気が合うようだった。
 これまで、二人と一緒にいて奈菜乃は気付いたことがある。二人の間に流れる空気は、他の人が一緒にいるときのそれとは少し違う。
 珠姫は、基本的には粗暴な言葉を使ったり手厳しい感想を述べたりすることはない。かわいらしく憎めない言動で、周囲から高い好感度を得ている。しかし彼女は陸だけには語気を強め、辛口で彼女を嗜めるのだった。
 陸は陸で、根っからのお気楽者で少々ルーズであるが、不平不満は口にしない強さがある、というのが陸を知る人のおおよその認識だ。しかし彼女も、珠姫の前では遠慮なく思ったことを言う。あれが嫌だこれがめんどくさいとズバリと言い捨てるのだ。素行も少し悪くなる。まるで珠姫に怒られたがっているかのようだった。

 こんな風に、二人の距離は近かった。
 言葉などなく、当たり前のようにお互いがお互いを許し合っている。奈菜乃にはそのことが少しだけ羨ましくてもどかしかった。後ろから奈菜乃が声をかけたとしても、二人はおしゃべりに夢中で気付いてもらえないかもしれない。漠然とそんな距離を感じていた。
 奈菜乃は、この二人と一緒にいることに一抹の虚しさを感じていたが、それでも二人が好きだった。だから、気にしてはいけないとずうっと心の隅っこに押しやって見て見ぬフリをしていた。




 今日も何事もなく、一日の授業が終わる。
 掃除を終え、ホームルームも終わり、クラスは解散となった。珠姫と陸は部活があるからと早々に教室を離れていった。部活の開始時間にはまだ早いが、奈菜乃は何も言わずにまたねと笑って二人を見送り、いつもより重い鞄の中身を確認する。この間の騒動のお詫びとして、珠姫と陸からおごってもらったミルクティーが底の方に二つあった。教室に繚の姿はない。
 彼がもう男子寮に帰っていたら、今日もまた渡せないだろう。半ば諦めながら校舎を探し歩いていると、繚は意外とあっさり見つかった。
 彼がいたのは屋上だった。誰もいないその場所で、繚はフェンスにもたれて目をつむっていた。温かい風がふわりとやってきて、彼の髪を揺らす。黒髪がさらさらと躍っていた。そういえば今日は一段と眠そうだったなと思い返しつつ、おそるおそる近寄ってみると、足音に気付いたのか繚はゆっくりと目を開けて顔を上げた。

「与成さん? どうしたの?」
「平良くん、おこしちゃってごめん。この間のお詫びがしたくって」
「別にいいのに」
「私の気が済まないから」

 そう言って奈菜乃は鞄を漁り、ミルクティーを二つ取り出した。それぞれ違うメーカーで作られたもので、味が微妙に違う。

「どっちがいい?あ、珠姫ちゃんと陸のおごりだから気にしないで受け取ってね」

 繚は少し考えて、せっかくだからと左側を受け取った。そのまま、「座る?」と右手で自分の隣を指したので、奈菜乃はその言葉に甘えてコンクリートの床に座り込む。スカート越しでもひやりと冷たかった。

「この間はごめんね」
「俺こそこんなものもらっちゃって。ありがとう。でも与成さんが謝る必要ないよ。それに、タダでお化け屋敷に入れたと思えば得だし」

 奈菜乃は前向きな人なんだなと感心しながらミルクティーに口をつけた。人間ができている。繚が教諭や生徒から一目置かれているのもわかる、と一人納得していた。

「平良くんはさ、学校の七不思議、知ってる?」
「ああ、聞いたことある」
「それの二つ目に、『遅くまで残っていると顔がない生徒に出会い、逃げようとしても階段が見つからない』っていうのがあるんだって。二人はそれになぞらえたみたい。ほんと、もう二度とやらないでほしいよ……」
「いたずらにしては手が込んでたね。与成さんはそういうの信じてるの?」
「信じたくない」
「なるほど」

 そう言って繚は笑った。日が傾き始め、空気がだんだんと冷えていく。

「そういえば与成さん、この間俺のこと有名人って言ってたけど、どういう意味か聞いていい?」

 奈菜乃は目を丸くして繚を見つめた。奈菜乃には、彼はそれがわからない人間には見えなかった。
 彼女は、これまで繚の様子を見てきて、彼がどんな人なのかなんとなくつかみ始めていた。
 彼は、男子特有のバカなノリに乗りこそしないが上手く立ち回っていているようで、友人はそこそこ多い。多少一匹狼の気はあるが決して孤立しない位置にいた。
 つまり、繚は周囲の人間から信頼はされど利用されないような、我の強さと頭の良さを持っているようだった。それに加えて彼の最も目立つものは、言わずもがなその献身ぶりだ。今時こんな高校生はいないと教諭も生徒も口を揃えて言うのだった。ゴミが落ちていたら拾い、誰かが困っていたら手助けする。
 彼のそのできた人間ぶりによる印象があまりに強くて、立ち回りの上手さに気付いていない人は多いのではないだろうか。もちろん、それに気付いたところでどうという話ではないのだが。

「本当にわからないの?」
「前も言ったけど、心当たりがないんだってば」
「嘘」
「嘘に聞こえる?」
「聞こえないけど……。でも、平良くん、自分が他人からどう見られているか知らないで動いているほど馬鹿じゃないでしょ」
「それって俺が計算高いってこと?」
「うん、そういうことにしよう」
「なんだよそれ。でもなんかショックだな。俺のこと打算的で極悪非道なたぬきやろうだと思ってたなんて」
「そこまで言ってないでしょーが」

 あまりの脚色に奈菜乃は笑ってしまった。それから表情を戻して、口をとがらせる。

「でも、平良くんってなんていうか論点をずらすのがうまいっていうか、断定させないっていうか、答えをくれないっていうか……。話し方が、小ずるいんだもん」
「そうかな。それで?」
「え?」

 奈菜乃は驚いた。てっきり誤魔化すか怒るかして、話題が変わるだろうと踏んでいたからだ。まさか掘り下げられるとは思っていなかった。繚は穏やかな表情で続ける。

「別に怒ったりしないよ。この間、与成さんに言われてから俺が他の人からどんな風に見えているのか気になっててさ。せっかくだから、与成さんの話、聞かせてよ」

 その声色が柔らかく心地よいものだったので、奈菜乃は戸惑いを残しつつも、促されるまま口を開いた。

「……みんな、先生も生徒も平良くんのこと優等生って言ってる。勉強はできるし、親切だし、こんなすごい人なかなかいないって。そういう意味で有名人。私もそう思うよ」
「そうなんだ」
「あと、これは私が勝手に思ってるんだけど、平良くん、みんなと距離を取るのが上手いよね」
「距離?」
「仲良く見えるけど、一線引いてるっていうか。周りの人に悟られないように、踏み込まない一歩と、踏み込ませない一歩の距離を作ってるっていうか。こういうのって計算しないとできないことだと思うよ。だから、平良くんは頭がいいなって思う。勉強ができるって意味だけじゃなくて、頭の回転が速いって意味でも」
「なるほどね」

 繚は頷く。その後少し待ってから、奈菜乃から次の言葉の話がないと分かると平然とした顔でこう言った。

「与成さんって、俺のこと好きなの?」

 奈菜乃は、盛大にむせた。ちょうど飲んでいたミルクティーが呼吸気管に入ってしまったようで、げほげほと咳を繰り返す。繚は、「大丈夫?」とティッシュを取り出して奈菜乃に渡した。彼女はそれを受け取って口元を拭きつつ、どこかに飛んでいきそうな心臓を必死に抑え込んだ。出来る限りの平静を装ったが、あまり効果はなかったかもしれない。

「なっなんでそうなるの」
「だって、まだそんなに長い付き合いじゃないのによく俺のこと見てるなーって思って。正直ここまで詳しい話をしてもらえるとは思ってなかった」
「に、人間観察が趣味なんですー」

 やはり、話していいことではなかったかもしれない、と奈菜乃は少しだけ後悔した。繚は本気で言ったのか冗談で言ったのか判断がつかない顔で「それって才能だよ」と頷いていた。

「そういえば、今日は、あの二人は?」
「わかんない。部活が始まる前にどっか行っちゃった。もしかしたらまた私のことをからかって遊ぶ計画を立ててるのかも。もう、あの二人にとって私なんてただの遊び道具なんだから」

 ふてくされる奈菜乃の横顔を、繚はじっと見つめる。そうして何か思案するように視線を彷徨わせ、不意に口を開いた。

「四時四十四分の七不思議ってあったよな」
「……えっと、『四時四十四分に学校内の鏡に触ると鏡の中の世界に入っちゃって、学校から出られなくなる』っていうやつ?」

 時刻は午後四時半になる少し前だ。





 それから二時間後、午後六時半を過ぎたころだった。
 有中高校では、下校の目安時間が六時半となっている。あくまで目安なので、部活動等の終了時間に関しては顧問の裁量によるところが大きく、長引いても早く終わっても問題はない。
 有中高校吹奏楽部では、六時半以降は自主練習となっている。帰り支度をする人がちらほらいる中で、吹奏楽部に所属している珠姫は、今日の合奏の出来がよくなかったので自主練をしていくつもりで楽譜とにらめっこをしていた。

「天野さん!」

 音楽室内のざわめきに混ざって、ここでは聴くことがない声が耳に入る。驚いて顔を上げるとそこに立っていたのは繚だった。自分に一体何の用かと訝しんだが、どこか憔悴して切羽詰まった繚の様子にただならないものを感じてトランペットを置いた。

「練習中にごめん。大変なんだ。与成さんが……」
「ななちゃんが?」

 珠姫は立ち上がり、繚に促されるまま急いで音楽室から出た。音楽室の入り口には陸も立っていた。繚はそのまま音楽室から離れ、人気のないところで立ち止まる。

「ななちゃんがどうしたの? 何かあったの?」

 繚は青白い顔で目線を揺らし、二、三度口を動かした。音は漏れてこない。唇が震えていた。

「こんなこと言って信じてもらえるか……わからないんだけど……」
「いいから早く話せよ」

 陸がせっつくと、繚はぎゅっと口を閉じて、それから決心したように話し始めた。

「与成さんが消えちゃったんだ」
「はあ!?」
「どういうこと?」

 陸と珠姫は、突拍子もない彼の話に眉を寄せた。

「放課後に屋上で与成さんと話してたんだよ。それで、七不思議の話になって。どうせ作り話に決まってるって話してたんだ。四時半くらいだった。俺だって七不思議なんて信じてなかったから、時間もちょうどいいし試してみるかって言ったんだ」
「試すって」
「四時四十四分の七不思議」
「鏡の中に入っちゃうってやつ?」
「ああ」
「まさか本当に鏡の中に入っちゃったとか?!」
「何それ、ホントかよ?」
「だから信じてもらえないと思ったんだ!」

 突然、繚が声を荒げた。悲痛な叫びだった。目の端にじわりと涙が浮かんでいる。繚の様子に圧倒されて、珠姫と陸は口を噤んだ。ほとんど沈んでしまった夕日が深い陰影を作り出し、重く影を落としていた。

「目の前で与成さんがいなくなって、俺もどうしたらいいのかわかんなくて。学校中の鏡を調べたんだけど何もわからなくて。ほんとに、俺、どうしたらいいのか……」

 繚は頭を抱えてうなだれるようにしゃがみこむ。後半は聞こえるか聞こえないかわからないくらいのか細い声で、震えを隠し切れていなかった。
 珠姫と陸は困惑を浮かべて顔を見合わせる。繚の様子は明らかにおかしかった。こんなに取り乱した彼を一度も見たことがない。二人は、繚と目線を合わせるようにしゃがんだ。

「消えたって、どんな風に?」
「……鏡に触ったら、鏡が水みたいになってするっと抜けたんだ。手をつかもうとしたけど間に合わなくて……」
「奈菜乃はどこで消えたんだ?」
「三階倉庫室にしまってある大鏡」
「行ってみよう」

 陸と珠姫は立ち上がり、視聴覚室へ向かって走り出した。繚もその後を追いかける。陸は口をきゅっと結んで眉間にしわを寄せ、珠姫は泣きそうな顔で唇を噛み締めていた。緊迫した空気が駆け抜けていく。夕日に溶けて混じり始めた闇が、三人の背中を追いかけていた。彼らをはやし立てるように、色のない足音が廊下を木霊する。
 渡り廊下を走り、階段を駆け上がり、廊下の一番隅にまでやってきて、ようやく三人は立ち止まった。倉庫室はここだった。三階、廊下のつきあたりの小さな部屋。すぐ隣には屋上へ繋がる階段がある。
 先頭を走ってきた陸が、息を整えることもせずに倉庫室の扉を開けた。一歩踏み込むと埃っぽい空気に包まれる。分厚いカーテンが夕日を遮り、室内には暗闇が充満していた。日がほとんど落ちているせいで廊下にも十分な明かりはない。部屋の奥は真っ暗で何も見えなかった。電気のスイッチはどこにあるだろう、と手を伸ばした、そのときだった。
 鼓膜を激しく震わせる破裂音が、立て続けに二つ、前方と後方から鳴り響いた。

「おわっ何!?」
「ひえええっ」

 陸と珠姫は跳びあがって身を固めた。この部屋では奈菜乃が危険に遭っているはずだ。もしかして自分たちも奇妙な事象に巻き込まれたのではないか――そんな考えが頭をよぎり、緊張が走る。パチッという小さな音と共に倉庫室の電気がついた。
 彼らの前に、A3用紙を持った人間が一人立っていた。誰だと考えるまでもない。そこにいたのは、消えたはずの奈菜乃だった。彼女は少しだけ申し訳なさそうに、けれどその顔にはしてやったりという笑みが浮かんでいる。彼女が持っている紙にはマジックでこう書かれていた。

「『ドッキリ大成功』……?」
「えっ、ええ!? 何それ!?」

 彼女たちの後ろにいた繚は、混乱する二人を面白がりながら前へと出た。

「こんなに上手くいくと思わなかったな。騙されてくれてありがとう」
「はあ!?」
「ななちゃん? どういうこと?」

 珠姫は困ったような怒ったような顔をして問い詰める。しかし奈菜乃はうろたえず、真正面からきりりと答えた。

「この間の仕返し!」

 それを聞くと、陸は髪をかきあげて盛大なため息をついた。珠姫もぽかんと口を開けて、それから気が抜けたようで床にへたりこんだ。

「お前らグルだったのかよ……あー心配して損した。つーか演技上手すぎ」
「完全に騙された……。もう、本当だと思って、どうしようどうしようってすっごく焦ってたのに! もう!」
「どっかの小説家も書いてただろ、『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』って」

 繚はそう言いながら手元の紙鉄砲をいじった。見ると奈菜乃も新聞紙で作った紙鉄砲を手にしている。先ほどの破裂音はこれによるものらしい。

「これ、奈菜乃が考えたのか?」
「俺がやろうって言ったんだ。やられっぱなしじゃつまらないし。それにしても、まさか『ただの作り話』にこんなにあっさり引っかかってくれるなんて思ってなかった。『脅かし冥利に尽きる』ね」
「こいつ……」

 呆れ半分、憎さ半分で陸は繚を睨みつけたが、繚は飄々としている。

「でも、本当に心配したんだからね! ななちゃんのバカ! 楽器だって放り出して来たのに!」
「あたしだってびっくりしてダウンもしないでスパイク放り出して走ってきたよ! 筋肉痛になったら二人のせいだかんな!」

 轟々と非難を浴びせられて、奈菜乃は苦笑いをした。正直なところ、嬉しかった。

「ごめんね。二人にジュース一本ずつおごるから、許してよ」

 珠姫と陸は目を丸くする。そして気がついたらしい。自分たちがあのとき何でもって彼女に許しを得たのか。一本に結んでいた口元が緩んだ。

「あたしオレンジジュースな」
「私はいちごオレがいい」

 三人で顔を見合わせて笑った。




 倉庫室を出て、廊下を歩いていたときのことだ。
 珠姫と陸が前方でわいわいやっている隙に、繚がさり気なく耳打ちをしてきた。

「ね。わかっただろ。大丈夫だよ、二人ともちゃんと与成さんのこと好きだから」

 奈菜乃は思わず繚の顔を見つめた。彼は既に奈菜乃から視線を外し、今は騒ぐ二人を眺めている。
 今回のドッキリは、繚の発案だった。彼は、四時四十四分の七不思議の話を持ちだした後、こう続けたのだ。

『試してみる? 二人が与成さんをどう思っているか』

 感情の読めない笑顔で奈菜乃を見ていた。そこまでするようなことじゃないと奈菜乃が渋ると、『与成さんは二人からお詫びしてもらったかもしれないけど、俺は遊ばれたっきりだもの。意趣返しに付き合ってよ。変なことはしないさ。七不思議を使ってびっくりさせるだけだから』と言う。気にしてないのではなかったのかと尋ねれば、そんなこと一言も言っていないと返される。そう言われたら、奈菜乃が反対する理由はなかった。
 結局のところ、彼の本音はどっちだったのだろう。あるいは両方だろうか。
 繚が何を考えていたのか正しくわかろうがそうでなかろうが、陸と珠姫が奈菜乃のために走ったという事実は変わらなかった。そのことに奈菜乃が少なからず救いを感じたのも、また事実だった。



(2013/8/28)


 

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