それから数日経った金曜日のことだった。奈菜乃が転校してきてから十三日目だ。
新しく、転校生がやってきた。
「転校生の、伊部谷由(いぶたに
ゆかり)さんです。席は前から三番目の、空いているあそこです」
担任の教諭が微笑んだ。眼鏡をかけた柔和な女性だ。
由は無愛想で背の高い男子だった。むっすりとよろしくお願いします、と挨拶をすると教諭に指示された席へと座った。きびきびとした動作をしている。彼の席は奈菜乃の席からちょうど三つ前のため、黒板が少し隠れて見にくくなった。
教室は、新しい仲間の存在を気にしてひそやかにざわついている。奈菜乃がふっと右横を盗み見ると、相変わらず繚はつまらなさそうに何も書かれていない黒板を眺めていた。
そういえば自分も、初めて教室にやってきたとき、繚からこんな風に見られていたのだ、と思い出した。彼は冷めた態度で早く朝礼が終わらないかと耐えていた。奈菜乃のことを空中に漂うチリほども気にしていないようだった。あのときのやけに冷えた空気が、今更鋭く胸に刺さった。鈍い痛みがじわじわと広がっていく。
今の繚は奈菜乃に対して初めのころのような無関心でいるわけではない。わかっているつもりだが、それでも痛みは収まらなかった。
その後の国語の時間は自習となり、奈菜乃は読みかけの小説を読んだ。とある医者が船医として乗船した際の旅行記だ。話に身が入らずにぼんやり読んでいたが、ある一節に目が留まった。それは、とある詩人の詩を引用したものだった。
『――血だらけのけものの体を 夕方 海辺づたいにひいてゆくのは このおれだ――』
文字の羅列を流し見ていたが、このフレーズに差し掛かったときに冷水を浴びせられたようにぞっとした。真っ赤な夕日に照らされた浜辺で、同じように真っ赤な血に染まった獣を引きずって歩く人の姿が浮かんだのだ。
授業時間が終わって本を閉じた後も、言葉の響きがなぜだかいやに頭に残っていた。
「ななちゃん、伊部谷くんのこと、どう思う?」
「どうって、背が高くてちょっと黒板が見にくいかなって」
「そうじゃなくてー!」
珠姫がそう話しかけてきたのは、一日の授業が終わって理科室を掃除しているときだった。珠姫と奈菜乃は掃除の班が一緒だ。班には他にも男子が三人いるが、彼らは今、掃除をほっぽり出して箒を振り回して遊んでいた。
「伊部谷くん、イケメンだと思わない?
競争率高くなるんじゃないかな〜」
「そお? 珠姫ちゃんってああいう顔が好みなの?」
「私じゃなくて、一般的に!
そっか、ななちゃんには好きな人がいるもんねえ」
珠姫はニヤニヤと笑っている。珠姫の言う『好きな人』が誰のことなのか、奈菜乃はすぐに気がついた。そして、否定をしても肯定をしても誤魔化したとしても面倒なことになるだろうと思い至る。
「珠姫ちゃん、私ゴミ捨ててくるね。掃除用具しまっててくれる?」
「えー?
まあいいけど。じゃあゴミ捨てお願いね」
珠姫は少し残念そうな顔をしたが、しつこく言ってくることはなかった。奈菜乃は内心でほっとする。ゴミ箱から紙屑や綿埃が詰まった大きなポリ袋を取り出すと、ゴミ回収の場所を目指して階段を下りた。
どの生徒もあらかた掃除が終わった時間のようだった。廊下で立ち話をしている人や、自分の教室へ向かうために階段を上っていく人たちとすれ違う。ぬくもり溢れる日光が校内を満たしていた。道行く生徒たちの靴先では陽光が楽しげに跳ねている。奈菜乃は、心地よいざわめきの中を歩いた。
ゴミ回収のためにゴミ捨てを指定されている場所は、学校の中央の裏口から外に出て、左に曲がった先にある小屋だ。外とは言っても小屋までの道にはマットが敷かれていて内履きでも歩くことができるようになっている。地面にはクローバーが茂っていて、土は大部分が隠れていた。このあたりはいつ来ても人気が少ない静かな場所だ。
奈菜乃は早く理科室に戻ろうと近道を通ることにした。理科室側の階段脇にある裏口から行くと、実は距離的にはこちらの方が近い。しかしマットは敷かれていないし、校舎裏の狭くて汚い場所を通らなければならないので、この近道を使う人は滅多にいなかった。
奈菜乃は階段脇の裏口から外へ出ると、コンクリートの上の汚れていない部分を選んで歩く。ゴミ捨て場の小屋の中は暗くて埃っぽく、湿っていた。真ん中にはゴミ回収用の大きな袋が置いてあり、小屋の隅にはスコップやシャベル、鉢、ベニヤ板、ブルーシートなどが雑然と並んでいた。物置きとしても使われているらしい。
奈菜乃はゴミを捨てると、来たときと同じように歩いた。すれ違う人はいない。人ひとりが通れるほどの狭い校舎裏を抜け、階段脇の裏口に辿り着いたときだった。人の話し声が聞こえた。どうやら、裏口から校内に入らずに、そのまま歩いていった先に人がいるようだった。少し先が校舎の角になっているため、どちら側からもお互いの姿を見つけることはできない。
気にせず校内に入ろうとしたが、怒鳴り声が聞こえて足を止めてしまった。喧嘩か何かだろうか。耳を澄ました。
「いつも優等生ヅラしやがってムカつくんだよお前」
「調子乗ってんじゃねーぞコラ」
まずい、と奈菜乃は思った。絶対に関係してはいけないタイプの喧嘩だ。自分に向かって言われたわけではないのに、心臓が大きく跳ねて冷や汗が流れた。早く強面の先生を呼んでこよう、と音をたてないように注意しながらそっとドアノブを握る。足を踏み出す準備はできていた。しかし、次の瞬間、金縛りに遭ったかのように動けなくなった。
「どいてください。もうすぐホームルームが始まります」
聞き間違えようのない声だった。普段は穏やかで、よく通る迷いのない声が、今は苛立ちが刺々しく突き刺さる低い音になっていた。手が震える。脳内がぐるぐると回り始めた。
「テメエのそういう態度がムカつくんだよ」
「ここにゃちょうど誰もいないしなあ。おあつらえ向きだよなあ」
「こんなことしていいと思ってるんですか」
彼の口調からは怯えは全く見えなかった。怯えどころか、苛立ちの色さえ次第に薄くなっているような気がした。
「俺らバカだから優等生サマの言ってることが全然わかりませーん」
「さすがにボコられてセンセーに泣きつくような救えないタマナシ野郎じゃねーだろ」
「じゃ、心の準備はいいですか優等生くん?」
何も考えられないまま、ほとんど反射で脚が動いた。校舎の角まで走り、声が聞こえる方を向いて立ち止まった。
「あんたたち、何してんの!」
そこにいたのは、四人の男子生徒だった。一人が校舎を背に立ち、いかにも素行が悪そうな男子生徒三人が、その一人を取り囲んで立っていた。全員が奈菜乃を見る。取り囲まれていた一人の男子生徒――繚が、ぎょっとしたように目を見開いた。
その場所は建物の影になっていて、校舎や裏道から見ることはできない。陰湿な殴り合いにはおあつらえ向きの場所だった。
「んだテメエ。邪魔だ失せろ」
「今取り込み中なんだよ。早く消えねーと殺すぞ」
不良たちが発している殺気は大蛇のようにうねり渦巻いていて、奈菜乃はたじろいだ。続けざまに彼らが金属バットや大型のシャベルを持っているのが目に入り、手足が冷たくなるのを感じた。しかし、今更引くわけにはいかない。逃げ出しそうになる足を抑えつけて、精一杯毅然とした態度を取り繕った。
「平良くんを離しなさい!
あんたたち退学になってもいいの!?」
「あんた馬鹿か!
いいから逃げろよ!」
繚が怒鳴った。奈菜乃は彼の怒鳴り声を、初めて聞いた。不良たちも同じようで少し意外そうな顔をしている。
「お前うるさい」
そう言って不良の一人が繚の腹部を殴りつけた。繚は激しく咳き込み、壁にもたれてくぐもった呻き声を上げる。下を向いていて表情はわからなかったが、口角が上がったように見えた気がした。
「ふーん。こいつの反応からすると知り合いだろ?
聞いたことないけど彼女とか?
そんなら一緒にやっちゃってもおもしれーかもな」
「他のヤツ呼ばれたら面倒だしな」
下卑た笑いを浮かべて、不良のうちの二人が奈菜乃の方へ向かって歩いてきた。そのうち片方はシャベルを手にしている。奈菜乃は極度の緊張の中で、回らない頭を必死に動かしながら、どうしたらいいか考えた。繚を助けたい、けれど自分は武術の心得もないし、武器も持っていない。やっぱり、先生を呼んでくるべきだった、どうして自分の足は動いてしまったのか、けれどきっと今からでも遅くはない――そう考えて、方向を変えようとしたときだった。手ぶらだった方の不良がポケットに手を入れ、取り出したのは、刃渡りが大きく頑丈そうなツールナイフだった。日光を反射して、刀身が攻撃的にぎらりと光る。
奈菜乃は一瞬怯んだ。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。その隙を狙って、ナイフを持った不良が地面を蹴って一気に詰め寄り、走り出そうとした奈菜乃の腕を力強くつかんだ。腕をつかまれ引っ張られた奈菜乃は体勢を崩して転んでしまう。もうだめだと思った。シャベルを持っている不良が、右手で奈菜乃の頬を殴った。視界が点滅して火花が散る。何が起こったのか把握できずにぐわんぐわんと世界が揺れた。それでも湧き上がる怒りで不良たちを睨みつけてやると、もう一発、と声が聞こえた。振りかざされた金属的な影をぼんやりと感じながら、歯を食いしばった。
しかし、いくら待っても衝撃は来ない。不思議に思いながらも、揺れる視界の中で必死に目をこらした。
不良が振りかざした腕は、誰かにつかまれて制止していた。不良は、一体誰が、と振り返って目を見開く。そこにいたのは、腹部を殴られて先ほどまで壁でうずくまっていたはずの繚だった。彼がさっきまでいた場所には、彼を見張っていた不良と金属バットが転がっている。
繚はつかんでいた不良の腕を思い切り引っ張って自分の方を向かせると、いつの間にか手にしていたナイフの柄を、何の躊躇いもなく不良の喉元へと打ちつけた。不良は酷く咳き込み、声になり損ねた呼吸音が一帯に溢れる。それからすぐさま繚はしゃがみこみ、不良の足首の裏側をナイフで切りつけた。何かが切れる生々しい音が鳴り渡り、不良は倒れ込む。地面や彼らの手足に血が飛び散る。彼は、うずくまって人とも獣ともとれない荒々しい呻き声を上げていた。
残った一人の不良は、呆然と立ち尽くしていた。繚はそれをつかまえて、十秒もしないうちに残りの二人と同じようにしてしまった。痛みに叫ぶ声が、言葉という形を取れずに垂れ流しになっている。その音と荒い呼吸音が混じり合い、辺り一帯を覆っていた。
奈菜乃もまた、呆然とこの異様な光景を眺めていた。殴られた痛みなどどこかへ飛んでいってしまった。何が起こったのか、理解できない。
「与成さん、大丈夫?」
繚は座り込んで動けなくなっている奈菜乃に近寄ると、優しく手を差し伸べた。その手には赤い血がべったりと付いている。
奈菜乃はその手を取ることができず、ただ放心して繚を見上げた。逆光のせいで表情がよく見えない。日が沈む前の明るい橙色が彼の輪郭をぼかし、同時に影を作っている。
しばらく待っても奈菜乃が動く気配はなかったので、繚は手を差し伸べるのをやめた。そのときに手についた血液に気がついたようで、近くに転がっている不良の制服で血を拭う。
「でもまあ、一応与成さんのおかげで助かったよ。ありがとう」
繚は、夕日を浴びながら笑った。名簿の整理を手伝ったときのあの笑顔と一瞬だけ重なって、すぐに霧散した。ありがとうと笑っているだけなのに、同じように穏やかに笑っているのに、あのときと今ではこうも違う。背筋が寒くなった。
「もうホームルームは始まってるかな」
繚はそう言いながら、転がっている彼らを蹴飛ばして仰向けにする。
「どう?
見下してたやつに虐げられている気分は。……はは、いいねその顔」
奈菜乃の位置からは繚の顔も、転がっている男子生徒の顔も見えなかった。繚はナイフをくるくる回して遊びながら続ける。
「本当は俺だってこんなことするつもりじゃなかったけどね。先に手を出したのはそっちだし、与成さんを守らなきゃいけないし、いろいろ面倒なことにならないし、お前たちをここに放置していけないし、ガムテープなんかあればよかったけど、まあ仕方ないよね」
彼はナイフをきちんと持つと、呻き転がっている男子生徒目がけておもむろにそれを振り上げた。奈菜乃は反射的にまぶたをぎゅっと閉じ、耳を塞いだ。しばらくの間そうやって、肉を断つ生々しい音も、悲鳴にならない呻き声も、繚がなじる声も、何も聞こえないふりをした。できるだけ何も考えないようにして、胸の奥から湧き上がる吐き気を必死にこらえた。このまま暗闇の中に閉じこもってしまいたかった。
それからどれくらい経っただろうか。音が聞こえなくなったので奈菜乃はおそるおそるまぶたを上げる。一番初めに鋭い橙色の陽光が目に刺さり、次第に情景が浮かんできた。雑草は赤い液体を滴らせ、地面には呪いのように赤い染みが広がっている。奈菜乃は出来る限り見ないように目を反らせた。
微動だにせず転がっているだけの三つの影と、傍に立つ一つの影が、深く黒く伸びていた。
次第にそれが混じり合い形を取り牙を剥く。このままここに座っていたら、その影に食われてしまうのではないかという錯覚に襲われた。
奈菜乃の脚は、脳が発する信号をまるで聞き入れない。ただただ呆然と座り込んでいることしかできなかった。耳の奥では、繚の楽しそうな声と、獣のような荒々しい呻きと、肉を切る音がいっしょくたになって暴れ回って、ガンガンと耳鳴りがしていた。
(2013/9/4)
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