三.水曜日:0027






 

 「では、帰りのホームルームを始めます」

 担任教諭がそう告げると、掃除を終えて雑談をしていた生徒たちが静かになった。今日も一日、特に何もない平和な日だった。
 担任教諭は町内で行われる予定の講演会について書かれたチラシを手渡しつつ、連絡事項を述べていく。講演場所は近くのホールで、題目は民話と伝承らしいが、奈菜乃は全く興味がなかった。それよりも、教員が今朝から繰り返している『月曜日は身体測定があるので体育着を忘れないこと』という連絡のほうがずっと興味があった。手帳を取り出して、体育着と書き込む。

「あ、そうだ、クラス委員、頼みたいことがあるんだが」

 教室は静かなままだ。教諭は首を傾げてクラス内を見渡すと、わかったぞという顔をした。

「布目路(ゆめみち)、そういえば今日休みだったか。でも困ったな。今日中にお願いしたかったんだが……」
 一瞬、教室に気まずい空気が流れた。面倒事を押し付けられるのは嫌だ、と生徒たちはこっそりと互いの顔色を伺う。

「先生、よかったら俺、暇ですし代わりにやりますよ」

 そう言って手をあげたのは、平良繚だった。
 誰かが名乗り出ると、先ほどまでの張り詰めた空気が一気に緩んだ。何人かの生徒が振り返り、繚の姿を確認すると納得した様子で体勢を戻す。よくあることなのかもしれない。しかし、奈菜乃の席の三つ前に座るいかにも不良といった風の痛んだ金髪の生徒は、しかめっ面で舌打ちをして繚を睨んでいた。

「それは助かる。いつもありがとうな。一人だと大変だろうから……与成、もし予定がなかったら申し訳ないが手伝ってもらえないか? クラスメイトの名前とか学校の雰囲気を知るのに役立つと思うんだが、どうだ?」

 奈菜乃はまさか自分に話が飛んでくるとは思わなかったので面食らったが、クラスメイト全員の名前がまだ覚えられていないのは確かだった。幸い用事もない。

「はい、大丈夫です」
「よかった、頼んだぞ。二人はホームルームが終わったら職員室まで一緒に来てくれ。それじゃあ皆、部活なり遊ぶなり気をつけていけよ。最近この辺では事故が多いって話だ。この間も学校近くの横断歩道で一人、車にはねられたらしい。油断しないで安全確認しなさいね。それでは、お疲れ様でした」



 
 職員室で担任教諭から渡されたのは、罫線が入った紙とノートとプリントだった。プリントには、役職・委員会の名前と仕事内容の説明が書かれている。

「そのノートがこの前の学活で役職を決めたときに書記がメモしたもの。そっちのプリントが学校の委員会とクラスの仕事分担について書いてあるもの。で、その罫線の紙に誰が何をやっているか書いてまとめてほしい」

 そう言って、担任教諭はあちこち指しながら更に説明を重ねた。丁寧でわかりやすい。

「申し訳ないけど、頼んだ」
「はい、わかりました」

 二人はプリントと受け取って教室に戻ると、空いている席に並んで座った。放課直後のためか廊下や教室内はまだ人が多く行き交っていて騒がしい。
 始めのうちはお互いに味気のない事務内容について話をしていた。繚は親切で、活動内容がわかりにくいものや奈菜乃がまだ覚えていないクラスメイトについて、あれこれと説明してくれる。おかげで時間はかかったが、奈菜乃も大方様子をつかむことができるようになっていた。学校の雰囲気だけではなく、クラスメイトの名前と特徴、所属している部活なんかも把握することができてしまった。
 そしてそのころには、大半の生徒は部活か寮に行っており、教室には二人以外残っていない。静かになった教室は、なんだかやけに声が響く。

「与成さん、なんだか巻き込んだみたいでごめん。本当はやりたいことあっただろ?」
「そんな、平良くんが謝ることじゃないよ。それに私も委員会とか把握しておきたかったし」
「あと、クラスメイトの名前を覚えたりとか?」
「なっ」

 意地悪く笑う繚に、奈菜乃は失礼な人だと思った。けれど図星だったので反論せずに簡単に肯定を述べると、「四十人以上も覚えるの大変だよね」とフォローが入る。嘘のない真摯な声色だった。もしかして悪気はなかったのかもしれないと思うと、変に勘ぐった自分が恥ずかしくなった。しかし考えてみれば、繚がからかうような表情でそう聞いたから、自分が馬鹿にされていると感じたのだ。もともと繚のせいではないか。それなら恥じる必要も申し訳なく思う必要もないと思い直す。

「でも俺の名前は覚えてくれてたんだ」
「え? まあ、そりゃあ、有名人だし……」
「俺が有名人? どこが?」
「それ私に言わせる気?」
「心当たりがないんだって」

 嘘や冗談を言っているようには聞こえなかった。
 奈菜乃が繚を有名人と言ったのは、もちろん彼が完璧な優等生だからだ。おそらくクラス全員の意見が一致するだろう。彼とクラスメイトとして過ごした時間は長くはないが、それでも彼が他の人と比べて頭が良くて献身的であることは肌身に感じていた。休み時間には他の生徒に勉強を教えている姿をよく見かける。そういえば、今日も、具合が悪そうな生徒にいち早く気付いて保健室に連れていく姿を見た。

「平良くんって、なんでそこまでできるの?」

 突然だったかもしれない。繚は作業を中断してゆっくりと顔を上げた。困惑とも微笑ともとれない表情をしている。

「何が?」
「とぼけないでよ。勉強はできるし人が嫌がることも引き受けるし困ってる人は助けるし。聖人が何かの生まれ変わりなの? 前世はノーベル平和賞でも受賞してるの?」

 大真面目にそう問い掛けた。
 すると、繚は一瞬目を丸くして、盛大に噴き出したのだった。笑うのは失礼だと思ったのか、必死に我慢しようとして腹を抱えて顔を下に向けている。しかしこらえきれないようで、肩を大きく揺らしていた。

「ちょっと、笑わないでよ」
「あはは、ごめんごめん。与成さんって面白いこと言うね」
「真剣に聞いてるのに」
「ごめんって。でも俺、与成さんが思ってるような人間じゃないよ」
「そうやって謙遜して……」
「謙遜じゃない。本当だよ。だって全部、自分のためにやってることだからさ」

 そう言って彼が柔らかな笑みを浮かべたのに対して、奈菜乃は眉を寄せた。どういう意味だろうか。繚がどんな心づもりでも、彼のおかげで助かった人は大勢いる。その事実は変わらない。
 橙の夕焼けが窓から差し込み、じんわりと二人を照らし出す。寄る辺のない太陽の余映が、彼に影をつくっていた。

「嫌みに聞こえるんですけど」
「それじゃもう何を言ったって駄目じゃないか」

 そう言って繚は笑い、そのまま作業に戻った。手を動かしながら、俺は欠陥品だからさ、と彼は小さく言葉を零した。振動のはずみでかごからボールが転がり落ちたみたいな言い方だった。奈菜乃はその意味がよく分からずに、再び眉根を寄せる。しかし、詳しく聞いていいのか戸惑っているうちに、沈黙が落ちてきて切り出しにくくなってしまった。
 結局そのまま、この話は流れてしまった。

 



 気付けば、時刻は六時半を過ぎていた。
「もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ」
 平良は時計と外の様子を代わる代わる見て、慌てて帰り支度を始めた。
 夕日はほとんど沈み、濃い茜色の光が冷たく教室を照らし出している。その中で、薄暗い闇が教室の隅で息を潜めて様子を伺っていた。じっと彼らを見張っているのは、隙を見せれば引きずり込んでやろうという怪異の目だった。

「与成さん、どこまで進んだ?」
「これで終わり」
「俺もさっきので終わり。手伝ってくれてありがとう。おかげで早く終わったよ」

 繚は穏やかに微笑んだ。夕日を背負って笑う彼の姿は、どこか哀しく映った。

「そんな、クラスのことなのに平良くんひとりにお願いするのも悪いし、私も部活やってないし」
「与成さんの方が謙遜してるじゃないか」
「それことれとは違いますー」
「はいはい。早く帰ろう。夕食が始まっちゃう」

 あれこれ言い合いながら二人は机の上を片付け、通学鞄を背負った。開きにくい教室の扉を力を込めて横に滑らせると、ガタガタとうるさく音を立てた。
 廊下に出て、ふと前を見ると、制服を着た少女がぽつんとこちらに背を向けて立っていた。いよいよ茜色が闇に混じり、夜が迫る廊下は深く暗い。少女の影はずっと遠くへと細く伸びて暗闇と同化していた。他に人気はなく、しんと静かだ。こんな時間にどうして一人で立っているのだろうかと奈菜乃は疑問に思った。繚が騒がしい音を立てて扉を閉めても、身じろぎ一つしないで突っ立っている少女はなんだか気味が悪かった。
 奈菜乃は、ぎくりとする。昨日の七不思議の話を思い出していた。確か、二つ目、『遅くまで残っていると顔がない生徒に出会い、逃げようとしても階段が見つからない』。まさかと思った。七不思議など、作り話に決まっている。
 繚もその少女の存在に気付いたが、眉根を寄せただけで特に言及したりせず、少女がいる方向と反対側へと歩き出そうとした。そのときだった。
 ぐるり、と首を動かして、少女は二人を見た。いや、正確には「見た」とは言わないだろう。少女の顔には、目がなかった。鼻もなかった。口もなかった。何も、なかった。
 ひっ、と奈菜乃は悲鳴を飲み込んだ。恐怖で声が出なかったのだ。足がすくんだ。闇に潜んでいた怪異が手を伸ばし、足をつかまえていて、動けない。

「与成さん!」

 名前を呼ばれてはっとした。次の瞬間には手を握られ、思い切り引っ張られていた。もつれそうになったがなんとか立て直し、先導されるがまま足を動かした。
 奈菜乃を引っ張っていたのは、言うまでもなく繚だった。緊張した面持ちで、ひたすら前を見て走っていた。奈菜乃も繚も、後ろを振り返る気にはならなかった。一秒でも早く学校から離れたいという一心で、赤暗い廊下を走っていた。
 



 階段は、あった。七不思議の通りなら階段はなく、延々と廊下を走る羽目になるのだが、階段はいつも通りそこにあった。脱出できそうだとほっとしたのも束の間だった。
 階段の踊り場で、暗闇の中から顔のパーツが一つもない女子学生が、二人をじいっと見つめていた。
 二人は思わず息を飲み、繚は今まさに階段を駆け下りようとしていた足にブレーキをかける。ちらりと後ろを見やると、後ろからも、顔のない女子学生が長い黒髪を振り乱して二人を追いかけてきていた。
 繚は険しい顔をして舌打ちすると、そのまま近くの教室に飛び込んで思い切り扉を閉めた。二人とも真っ青な顔をして息を切らしていた。教室の扉に鍵をかけようとしたが、いかんせん古い校舎のボロボロの扉だった。気が動転しているのも相まって、鍵がかからない。ガチャガチャと金属がこすれ合う音が虚しく空の教室に響くだけだ。
 そうこうしているうちに、ガラ……ガラガラ……と弱々しく扉が開く音がした。小さな音だったのにも関わらず、二人はびくりと肩を揺らし、音がしたもう一つの扉に目をやる。
 ずるり、と扉から覗かせたのは、女子生徒の頭だった。頭だけを教室内に覗かせつつ、ずるり、ずるりと徐々に教室へ入り込んでくる。ぼさぼさの黒髪が、重力のままに垂れさがり、ところどころ顔を隠していた。
 繚は鍵をかけようとするのを止め、今度は扉を押し開けようと力を込める。しかし、何かに抑えられているかのように、扉はガタン、ガタン、と揺れるだけで、開く気配はなかった。
 奈菜乃は、今度こそへたりこんだ。全身が震えて、もう何もかも使い物にならなかった。
 繚にもその震えが伝わったのだろう。彼は未だに繋いでいた手を、更に力を込めて握ってきた。指先から全身へ、彼の熱が伝わる。奈菜乃にはそれに応える余裕はなかったが、それでも確かに、ほんの少し震えが治まったような気がした。

 繚は、徐々に侵入してくるのっぺらぼうの女子生徒を睨み続けていた。しかし、少しするとはっと目を見開いた。奈菜乃の手をそっと離すと立ち上がり、ずかずかと、眼前の化物へと歩いていく。奈菜乃は息を飲んだ。襲われるのではないかと心臓が握りしめられる思いだったが、奇妙なことに、顔がない女子生徒は動きが止まり、おじけづいたようにそわそわし始めた。彼女が顔を引っこめるよりも、繚が彼女の髪をつかむ方が早かった。繚はそのまま、思い切り引っ張ったのだった。
 ずる、と髪と顔がずれる。奈菜乃は目を見張った。中から現れたのは、二人のクラスメイトである、陸の顔だった。

「あは、バレた?」

 陸は陽気に笑って、ぴょんと教室内に入ってきた。先ほどまでの緊張感は一気に吹き飛んでしまった。上から下まで、どこからどう見ても陸だった。一般的な女子より高めの身長に、運動部らしい引き締まった体つき。見慣れているはずのシルエットをまじまじと見つめていると、少しずつ非現実の上に現実が重なってきた。緩んだ空気に、奈菜乃は、ほうっと深い安堵のため息を吐く。震えは止まっていた。

「なかなかスリリングだったでしょ?」

 そう言って、カツラとマスクを手でいじりながら教室に入ってきたのは珠姫だった。

「踊り場の生徒と、扉を抑えていたのは私だよ。平良くん、力が強くて大変だったよお」

 繚は、深い深いため息を吐いた。安堵などではなく、呆れと疲れの色がありありと見えるため息だった。

「ばからしい。何がしたいんだよ、お前ら」
「肝試し? みたいな? 平良くん怒った?」

 きゃるんとかわいらしく珠姫は笑ったが、繚は再度ため息を吐いただけだった。

「いやー、二人ともどんな反応するかなって思って。まさかこんなにあっさりひっかかってくれるなんてさ。奈菜乃が思った以上に怖がってくれて脅かす側としては楽しかったね。平良、あんた意外と肝が据わってんのね」
「お前らが女子じゃなかったら三発は殴ってたからな」

 苦い顔で睨みつける繚に、珠姫は女子でよかったーなどと見当外れのことを言って笑っている。

「与成さん、大丈夫?」
「う、うん。ありがとう」

 あからさまに機嫌が悪くなった繚に声をかけられて、ようやく奈菜乃は立ち上がった。心臓はまだうるさく騒いでいる。

「本当のお化けじゃなくてよかった……」
「ななちゃん、幽霊なんているわけないじゃん! ただの作り話なんだから」
「そうだと思ってるけど、でも、本当かと思った」
「そりゃ、脅かし冥利に尽きるな」

 化物の正体を知り、二人と会話をして落ち着いてくると、今度は怒りのようなものが奈菜乃の中でふつふつとわいてきたのだった。

「にしても、ひどいよ二人とも。私が怖いの嫌いって知っててこういうことするなんて!」
「悪い悪い」

 全く悪びれる様子もなく、陸は笑う。そして、声を潜めて奈菜乃の耳元で囁く。

「で、平良とはどうだった?」

 はっとして陸を見ると、ニヤニヤと楽しそうにしていた。昨日話したときにはあんなに興味なさそうだったのに、彼女もそういう色恋沙汰に興味があったのかと意外だった。流れで珠姫を見ると、彼女は陸よりももっと楽しそうなやらしい顔をしていた。

「手なんか繋いじゃってー? 親睦は深められたんじゃない?」

 つまり、こういう共謀だったのか、と奈菜乃は気がついた。この脅かしは、怖い話が嫌いという奈菜乃を怖がらせて楽しむため、奈菜乃と繚の仲を本人たちの意思に関わらず勝手に進展させて楽しむため、この二つが目的なのだろう。そしておそらく、陸の繚に対する個人的なわだかまりも、ひっそりと含まれているのではないか。
 そう気がつくと、やはり腹立たしさを感じずにはいられなかった。おもちゃのように遊ばれている気がしてならない。同時に、友人二人のお遊びに巻き込んでしまった繚になんだか申し訳なさを感じた。

「別に、頼んでないし。珠姫ちゃんだって好きになるのはやめとけって言ってたくせに。暇だからって私で遊ばないでよ」

 頬を膨らませてつっけんどんに言うと、珠姫と陸は顔を見合わせた。やりすぎだったと気付いたのだった。

「ななちゃん、ごめんね。こんなにうまくいくと思わなくてはしゃいじゃった。百均で見かけたのっぺらぼうのマスクが以外とクオリティが高くて使ってみたくなっちゃったんだ」
「うん、なんつーか、悪かったな。ジュースおごるから許してよ」

 奈菜乃は恨みがましげに二人を見た。怒りはまだあったが、一応二人とも反省の態度を見せてくれたのでこれ以上拗ねていても仕方ないだろう。

「ミルクティー二本で手を打つから」
「じゃあ、リプトンと午後ティー一本ずつにしよう」
「何話してるんだ? 俺、先に帰るからな」

 そう言って、繚は教室を出ていった。足音が廊下に響き、だんだんと遠くなっていく。
 時計を見ると、七時はすっかり過ぎていた。小うるさい腹の虫をなだめすかしながら、彼女たちは急いで寮へと戻る。
 奈菜乃は、無意識に彼と繋いでいた左手を見つめていた。彼の手は、細くて角張っていて少しだけ温かかった。彼に励まされた感触を思い出すと、芯から熱が籠る。心はかなり落ち着いたはずなのに未だに火照りが冷めないような気がした。



(2013/8/21)


 

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