十六.ーー:ーー






 

  邦緒はその晩、眠ることができなかった。真っ暗な部屋の中、ベッドの隅でうずくまっていた。自分の気持ちを整理できずに、繰り返し今日のこととこれまでのことを思い出しては頭を掻き毟るのだった。



 あるとき、繚が四十度近い高熱を出したことがあった。ひどい眩暈と倦怠感で一人では立って歩けないような状態だった。
 当の本人は"突然の不幸"に見舞われることに慣れていた。それは必ず標的を追いかけているときで、ナイフを振りかざしたその瞬間に倒れてきた鉄柱の下敷きになったこともある。その日だって本当は、危険極まりない彼の趣味に興じるつもりだったのだ。何日も前から標的の行動範囲を調べ、最もリスクの少ない場所を選び、シュミレーションを繰り返して、準備は万端だった。
 彼自身はこの高熱をまたかと思った程度でそれほど気にしていなかったが、真に受けてあれこれと騒いで看病してやった人物が一人いた。言わずもがな、邦緒である。
 彼は夕食の時間にも翌朝の朝食の時間にも姿を現さない繚を心配して、彼の部屋を訪れたのだった。鍵は開いており、恐る恐る室内に入ったところ、ベッド付近で繚が倒れているのを見つけた。大慌てで駆けつけて、高熱で動けないのだと分かるや否や、ドタバタと騒がしくしながらも実に手際よく動いたのだった。
 まずは繚に肩を貸してベッドに押し込め、寮の管理人に報告して氷枕と体温計と洗面器と掛け布団、気休め程度だが市販薬を借りた。医者へ連れて行こうにも、あいにくこの町には土日に診療している場所はない。それから彼はスポーツ飲料を大量に購入してきて、布団に埋もれている繚の枕元に積みあげたのだった。
 その間繚は布団の中で、ぼそぼそと口を動かしていた。高熱による嗄れ声が布団の中でくぐもって大層聞き取りにくい。それでも出ていけだのほっといてくれだのと呟いていたが、邦緒はまるきり無視して看病した。
 繚の額に乗せているおしぼりを取り替えていたときだった。

「そういや、食欲ある? 何か食べれそう?」
「……ごめん」

 予想だにしない反応に、邦緒は思わず動きを止める。
 彼が何かに対して謝る場面は見たことがあったが、いつもどこか余裕のある空気を纏っていて、こんなに辛そうに謝罪を口にする姿は初めてだった。あるいは熱のせいかもしれない。
 弱々しい声は、布団にどんどん吸収されていく。聞き漏らさないようにと耳をそばだてた。耳鳴りがするほどに静かだった。
 高熱による生理的な涙が彼の瞳を潤ませている。普段は深く暗い闇を湛えているその瞳は、今はぼんやりと蛍光灯の明かりを反射して、空想の世界を見つめていた。そうして、ごめん、とうわごとを繰り返す。

「ごめん、布目路、ごめん、」
「別に迷惑なんかじゃないから謝る必要ねーよ。ていうか素直なりょーちゃん気持ち悪いんだけど」
「騙しててごめん」

 一瞬、時間が止まった。その言葉が意味するところがわからずに、邦緒は眉をしかめる。
 相変わらず、繚は弱々しくうわごとを呟いた。普段の絶対的な自信と完璧な仮面はどこにもない。別人のようだった。

「誰かに優しくしてもらう権利なんて俺にはないのに」
「そ……そんなの誰だって当たり前に受け取れるもんじゃん。権利じゃなくて義務だろ」
「お前っていつもそうだ。お前が俺を友人として扱ってくれるたび、どこかへ消えてしまいたくなる」
「りょーちゃん、ちょっと落ち着いて」
「お前のせいで俺はどんどん惨めになるんだよ。俺だって友人なんて作る気なかったのに。ほんとの居場所じゃないのに。こんなのいらなかったのに。今更捨てられないんだ。でも諦められないんだ。お前のせいだ。お前のせいだよ。こんなに苦しいのはお前のせいだ」
「りょーちゃんってば」
「お前がただのバカなら俺だってただのウザい奴としか思わなかったのに」
「何気に酷い」

 邦緒は残りの掛け布団を全部彼の上に乗せ、「いいからもう喋るな!」と怒鳴りつけると、それっきり繚は静かになった。不安になって覗きこむと、彼は糸が切れたように眠っていたのだった。
 翌日、彼の熱はすっかりひいていた。昨日のことは何も覚えていないようだったので、邦緒もわざわざ詮索するようなことはしなかった。好奇心は疼いたが、それ以上に触れてはいけない部分だと直感したからだった。



 邦緒は、頭の隅に追いやっていたあの日のことを、こんなときになって思い出してため息を吐く。今更、あのときの謝罪の意味がわかって、ただただ顔を歪めるばかりであった。
 そんな風に心を許し始めていた彼を、裏切ったのは自分だ。
 人殺しなんて野蛮な下卑た趣味で、許されない最低なことだと思った。しかし、自分も人のことを言えるような立場ではないのだ。いわば同じ穴の狢であったのに、自分だけ善人ぶって彼を突き放した。合わせる顔などない。
 ふと窓の外を覗けば、空が白み始めていた。


***


 学校はしばらくの間大騒ぎだった。翌日彼女たちは校長室に呼び出され、昨夜の詳細を話さなければならなかった。大抵は質問されたことに正直に話したが、言いたくないことは知らないと言い張り、面倒な質問には珠姫が嘘を交えつつもっともらしく言ってやれば、それ以上追及されることはなかった。
 教室では根も葉もない憶測と噂がそこかしこで歩き回っていた。そして予想していたことではあったが、奈菜乃も陸も珠姫も邦緒も、どこにいても質問攻めに遭った。四人の誰もが疲れていた。

「いつから平良くんが人殺しだって気付いてたの」
「あいつ今までに百人も殺してるらしいぜ」
「キスまでした仲だったんだってえ」
「布目路、お前あいつと仲良かったけど気付かなかったのかよ」
「一番仲のいい人が次に殺されるターゲットなんだって」
「放送が切れた後どうなったの」
「布目路も共犯だったんじゃねえの」

 その日の昼休み、配慮のない言葉を投げかけられ続けて、ついに邦緒の堪忍袋の緒が切れた。殴り合いの大喧嘩になって、駆けつけた先生に止められてようやく場が収まったものの、邦緒は数日間の謹慎を言い渡されることになった。それをきっかけに、学校の様子にうんざりしていた彼女ら三人も適当な理由をつけて学校を休むようになった。そうして息苦しい教室から避難したのだ。
 担任の教師も彼女たちに同情していたのか、はたまた言うことをきかない学生たちにうんざりしていたのか、彼女たちの欠席を言及することはなかった。


***


 それからしばらく経ち、事件の熱が落ち着いてきたころだった。
 奈菜乃は見張り番の人から繚の伝言を受け取った。伝えたいことがあるから来てほしいと。これまでのことを思い出すとまったく信用できなかったが、彼の残り日数を考えるともう時間がないはずだった。これが最後だと自分に言い聞かせ、例の廃ビルへ向かったのだった。
 廃ビルは相変わらずどんよりと薄暗かった。埃と黴の混じった臭いが鼻をつく。彼が閉じ込められている地下はあのときと何も変わっていない。暗い廊下に足音が響いた。
 当番制の見張りは、奈菜乃や珠姫、陸も度々見張りに行っていたが、それなりに上手くいっているようだった。ただ、見張り番を投げ出す人がいないという最低ラインでの話だ。
 今日も当番の者が部屋の入り口付近に座っていた。彼は退屈そうに本を読んでいたが、奈菜乃が近づくと顔をあげて不思議そうな顔をする。奈菜乃は事情を説明して中へ入る許可を取ろうとすると、彼はやる気がなさそうに欠伸をかいて、勝手にどうぞ、と鍵を指差した。
 扉には餌やり厳禁と書かれた張り紙が貼ってあった。誰がやったのかはわからない。奈菜乃は顔をしかめてそれを破り捨てた。品のない張り紙は、何度剥がしても注意してもなくなることはなかった。

 鍵を開けると、重苦しい音と共に扉が開いた。部屋に入ると一瞬妙な鉄臭さが鼻をついたが、扉から入り込んだ風でかき消えてしまった。部屋の中は薄暗く、殺風景だった。机と椅子がいくつか置いてあるだけで他には何もない。床を見るとところどころ黒い汚れが染みついていた。部屋の隅には着替えが畳まれて置いてある。一番上のワイシャツには黒い染みがついていた。
 繚は、手枷をはめられて部屋の一番奥で座っていた。奈菜乃に気がついて顔をあげる。暗かったためはっきりとは見えなかったが、久しぶりに正面から対峙した繚は、少し痩せていて、薄汚れていた。髪は乱れ、口元に痣をつくっている。目だけがぎらぎらと光っていて、彼の中の怪物が生きていることが伺えた。

「やあ、久しぶり」

 夏休み明けに会ったかのように気さくに話しかけてくるものだから、奈菜乃は面食らった。

「あれからどうだい。殺人事件はもう起きてない?」

 監禁されているとは思えない軽い口調だった。しかしその声はどこか気だるげで疲れていた。学校に通っていたときの精彩もあのときのような狂気も感じられない。
 彼が監禁された後、奈菜乃が何着か着替えを持って行ったのだが、彼はあのときの服装のまま学生服を着ていた。

「学生服、動きにくくないの」
「黒いから汚れが目立ちにくくていいよ」
「着替えが欲しいなら持ってくるけど」
「鈍い人だなあ。そういえば餓死って一番辛い死に方だって聞いたことあるな。たしかに辛いだろうね。絶望的だね。与成さんがいなかったら俺はきっと今頃骨と皮だ」

 彼は冗談なのか本気なのかわからない口調で話し続けた。見張り番のルールで決められている通り、奈菜乃は自分が当番のときには食事を持ってきていたが、まさか自分以外に食事を運んだ者がいなかったということはないだろう。しかし、扉の張り紙が脳裏を過ぎり、眉をしかめた。

「そういえば布目路くんとは話をしたの」
「いいや。そういえば一回来たが、追い返した。こんなところ絶対に見られたくないね。どうでもいいことまで抱え込むに違いないんだから」

 意外だった。繚は邦緒に対して他の人とは違う接し方をしていることはわかっていたが、それでもメリットなしに他人のことを思って行動する人間には見えない。
 その違和感が、彼女のとある仮説をより確実なものへと変えていく。
 二人の関係を、繚を傷つけるために利用するのではなく、彼の人間性を引っ張り出すために使えばよかったのではないかと、全てが終わった今になって思うのだ。そうしたらきっと彼の傲慢な敗北宣言はなく、今ここで暗い地下室に閉じ込められることもなかっただろう。どうしてあのとき思いつかなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。しかし、いくら悩もうと後の祭りなのである。

「……じゅうぶん悩んでたよ。俺が裏切ったんだって」

 繚は軽く笑った。

「あいつらしいな。まだこの町にいるなら気にする必要ないって伝えといてよ。いや、まだこの町にいるってかなり問題なんだけど。いい加減にしろとも言っておいてよ。持ってない記憶に縛られて自分の品性を貶めるようなことするなって。レコードくらいなんとかしてやるから」
「レコード?」

 彼は奈菜乃の問いには答えず、彼女に椅子を勧めた。彼女も促されるまま無造作に置かれていたパイプ椅子に座る。

「それにしても、まさか本当に来てくれるとは思わなかった」
「遺言くらい聞いてあげようと思って」
「言うようになったねえ」

 彼はくすくすと笑う。病床の患者を思わせる弱々しさだった。

「もう見当はついてると思うけど、今日が俺のこの町にいられる最後の日だ。せっかくだから有中町の秘密について、伝えておこうかと思って。案の定、って顔してるね。それじゃあもったいぶらずに話そうか。……町を出る、って俺は何度も言ったけど、与成さんはここから出た後どこへ行くと思う」
「どこって、有中町から別の町へ行けるようになって、」

 そうじゃない、と繚は彼女の言葉を遮った。憐れみを含んだ表情で奈菜乃を見つめる。

「きみたちが初めに見るのは、恐らく真っ白な天井だろう。そして妙な機械とたくさんの管だ」
 言葉が出てこなかった。似たような小説を読んだことがある。確かSF小説だ。いつ話が変わったのだろうか、とそんなことを思った。繚は奈菜乃に構わずに話を続ける。
「ここはほんとの世界じゃないよ」

 気付かなかったかい、と彼はぼやく。

「仮想世界とでも言えばいいか。社会の秩序を乱した俺たちは、ここでふるいにかけられているのさ。その悪意が魂に染み付いたものなのか、今生だけの過ちだったのか。もちろんまだ実験段階だし、技術にも資金にも倫理にも世論にも問題は山積みだけど。有中町では、法という抑止力が存在しない世界でいかに秩序を乱さずに生活できるか計測されているんだ。わかっただろう。あの時計だよ。現実世界の現在の法律を基準として、罪を犯し続ければ数値が増えて、一定の数値を越えるかゼロになるかしたら強制的にこの町から追い出される、則ち現実の世界で目覚める」
「ちょっと、何それ。待ってよ、意味がわからない。どうせ嘘でしょう?」
「嘘だと思うならそれでいい」
「万が一、本当だとしてもだよ、どうしてあなたがそんなこと知ってるの」
「だって、俺も有中町の製作者の一人だから」

 さっきから彼が何を言っているのか理解できなかった。突拍子がなくて、まるで荒唐無稽な絵空事だ。だが、彼の口調は始終穏やかだった。そこにはからかいや悪意など含まれていなかった。

「どういうこと、そんなの、高校生でしょ、」
「どうもこうもそのままの意味だ。今与成さんが感じている疑問は、目が覚めたらきっと自然と全部わかるようになるだろう。熱で油が溶けるようにね。俺がわざわざ答える必要なんてない。けど、ひとつだけ、誰も知らない秘密があるんだよ。……俺はね、たぶんきみのことが気に入っちゃったんだ。人殺しの平良繚に正面からぶつかってきたのはきみが初めてだった。その真っ直ぐな魂の在り様を賞讃しよう。与成さん、俺の最大の秘密を持って帰ってよ。今度こそ、誰にも言わないでね」

 彼は監禁されているとは思えない綺麗な笑顔でにっこりと笑った。そうして奈菜乃がうんともすんとも言わないうちに、続きを話し始めたのだった。はじめから彼女の反応をもらおうとは思っていなかったのかもしれない。

「俺は、俺が人殺しになってからの記憶を全て持っているんだ。ずうっと昔から、何遍も繰り返した。いろんな人生があったよ。戦争に行ったこともあれば裏社会を渡り歩いたこともあるし、外国で医者をやったこともある。もちろんどの人生でも俺は自分の趣味を一番にしていたけれど。そのために生きてるようなものだからね。まあ、おかげで新聞や雑誌やテレビでは大きく取り上げてもらったこともある。世界を震撼させた凶悪殺人犯、なんてね。時代が俺を隠してくれたときは楽だったけど、最近はそうもいかないから大変だったよ」

 眩暈がした。まるでどこかの物語を聞いているような感覚だった。彼の話に理解が追いつかない。

「信じられないって顔してる。信じてもらおうとは思ってない。だって俺もそうなんだよ。自分が信じられない。昔から自分の頭のつくりに疑問を抱いていたんだ。どうして自分だけ過去の人生があるんだろうって。だから今度の人生では脳の研究をしようと決めた。昔に比べて科学はかなり進歩したものだから、もしかしたら何かわかるかもしれないと思ってね。研究に没頭しているうちに、気がついたらこの再犯防止プログラム『有中町』制作プロジェクトに抜擢されてたってわけ。もちろん、趣味もほどほどに楽しみながらね。うまくやってたんだけど、研究所の人間に手を出したのが運のツキだったかなあ」

 彼はどこか遠くを見つめながら、穏やかな口調で話続けた。

「殺人がばれたとき、警察に引き渡されるかと思ったら、あいつら、事件を揉み消して俺を研究所の別棟に監禁しやがった。プロジェクトは最終段階で、俺が抜けたら研究は完成しない。俺がどうこう言える立場じゃないけど、あいつら命よりも研究を取ったんだ。
 俺は真っ白な部屋で全てを監視されながら、プログラムの調整を続けた。一通り完成して試験運転が始まって、俺自身も研究者として、そして被験者としてここへ送りこまれた。それまでの記憶は有中町では引き継がれないんだけど、俺は機能がうまく稼働してるか確かめる必要があったから全ての記憶と知識を持ってこの仮想世界に来たんだ。それでまあ、仕組みは熟知してたから、好き勝手やってたわけ。こっちでの生活を現実世界の人間と共有できるものは犯罪履歴だけだからね。今頃向こうの連中は俺のレコードを見て泡を食ってるところだろうよ。
 それで、有中町なんだけど、現実世界の再現度はそこそこ高いし、記憶修正もほぼ問題ない。与成さんみたいな例外がいるのは今後の課題の一つだけど、俺の担当した、記憶の摘出・消去・調整と各人の脳内で共通の疑似世界を構築するって部分はほとんど成功だと言っていいだろう。
 これが全てだよ」

 奈菜乃は、ただ茫然と彼の話を聞いていた。ここが仮想世界だと言われても全くピンと来ないし、彼の作り話だと言われた方がよっぽど現実味があると思った。嘘に違いないと思ったが、それにしては彼の様子は実に穏やかで、結局のところ嘘か本当か判断することはできなかった。
 言葉が浮かばすに黙っていたら、繚が再び口を開いた。

「ところで与成さん、クラスの人が消えていたの、知ってた?」

 奈菜乃はぎょっとした。人が消えるなんて気がつかないわけがない。

「また妙な冗談言ってるんでしょ」
「いや。転校生はやってくるけど、転校していく生徒はいなかっただろ。そうか、与成さんでもそこのところはきちんと記憶の修正がかかってるわけか。それじゃあ明日になったらきみは俺のことを忘れてるだろうね」
「ばかなこと言わないで。忘れられるわけないでしょ。ここまで散々好き勝手やっておいて」
「ふうん、それじゃ、俺はきみの想いの強さに賭けるとするよ」

そう言って、彼はやはり笑うのだった。


 奈菜乃は寮に戻ってから、ノートを一ページ破ってそこに繚の名前を書いた。その下に、彼の悪行三昧と今日聞いたことを恨みを込めて書き綴り、目につきやすいように机の上へ置く。彼の話したことを全て信じたというわけではなかったが、不安を拭い切れなかったのだ。
 夜が明ければ彼は有中町から出るという。奈菜乃はもやもやしたものを胸に抱えて、ベッドに入った。彼と出会ってから今日までのことを思い出しながら目を瞑る。


 翌朝、気持ちの良い朝日が部屋に差し込み、奈菜乃は目を覚ました。うんと伸びをして、ベッドから降りる。カーテンを開けようとして机の上に紙が乗っていることに気がついた。平良繚、と書かれたそれを見て、何のことかわからずに首を傾げる。昨夜一心不乱に書き綴っていたはずだけれど、その名前が何を意味しているのかは思い出せなかった。
 名前の下にが長々と文章が書かれている。読まなければならないような気がして、文字の上に視線を滑らせていく。そして最後まで読んだところで心臓が跳ねた。心拍数が上がる。この名前を見て、どうしてわからなかったのか不思議でならない。あれだけのことがあって、忘れることなんてできないはずなのに。
 奈菜乃は寮を飛び出した。朝日が町を美しく照らし出している。例の廃ビルにやってきて、彼が監禁されている部屋に行った。今日の見張り番は椅子にもたれてぐっすりと眠っていた。部屋の中は、もぬけの殻だった。彼の姿はもちろん、彼の着替えも床の染みもなくなっていて、全てが元の通りだった。
 奈菜乃は寮に戻って、出会った生徒をひっつかまえて聞いてみた。平良繚を覚えているかと。みんながみんな、首を傾げただけだった。誰に聞いても、彼を覚えている人はいなかった。珠姫も、陸も、邦緒でさえも、彼のことを知らないと言った。


 町中、はじめから彼がいなかったかのようだった。
 あれだけ騒ぎを大きくしたのにも関わらず、誰もが何事もなかったように生活していた。奈菜乃は、彼のことは妄想ではないと固く信じていたものの、次第に彼女の中からも実感は薄れていって、夢の中の出来事のように、実態のないものになっていった。
 それから彼女が有中町を出るまで、平和で平凡な日々が続いた。


(2014/10/12)


 

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