十七.






 


 暗闇の中で、一筋の光が見えた。眩しくて、恐る恐る瞼を持ち上げる。
 ぼやけていた視界がだんだんと輪郭線を取り戻していく。
 一番初めに目に入ったのは、長方形に切り取られた白だった。模様はなく、ただ真っ白でぼんやり光っていた。力を込めると指先が動き、ざらりとした感覚が伝わる。このときようやく身体があることを思い出した。腹に力を込めると身体が起き上がり、脳がぐわんぐわんと揺れて眩暈がした。吐き気がする。しばらく目を閉じて揺れが収まるのを待った。
 目を瞑っても浮かんでくるのは真っ白な空間だけだった。自分が誰なのか、ここがどこなのか、これまで何をしていたのか、一つもわからない。ただ漠然と、生きている、と思った。

 ゆっくりと目を開けると、白光の中でぼやけていたものたちがだんだんと形を取り戻していく。
 ここは、限りなく広い一つの部屋だった。天井も壁も床も光沢を持つ真っ白な素材でできていて、不思議ななめらかさがある。壁に光源が埋め込まれているのか、部屋全体が淡く光っていた。床には大人一人入れそうなほどの長方形の白い箱がびっしりと並んでいた。まるで棺桶のようだ。ほとんどの蓋は閉まっていたが、ときどき蓋が空いているものもある。そして私もまた、蓋の開いたこの白い棺桶の中にいるのだった。上半身だけを起こして周囲を観察している。
 手元に視線を落とすと、不健康に細った指が見えた。どうやら自分は患者服を着ているらしい。患者服は薄くてごわついていたが、寒さも暑さも感じなかった。自分の周りにはさまざまな種類の管が転がっていた。管を辿ると、あるものは棺桶の底へ、あるものは棺桶の端へと埋め込まれていて、その先に何があるのかはわからない。

 不意に、弱くゴロゴロという音が聞こえた。それは子供くらいの大きさのロボットだった。円筒状で、金属製の粗野な腕がついている。上部には半球が乗っていて、恐らく目をかたどったものであろう、二つのランプが青く光っていた。
 そのロボットは私のすぐそばまで来ると、目を点滅させてこう言った。

『目が覚めた方はこちらへどうぞ』

 ロボットは私に背を向けてゴロゴロと移動する。数メートル離れたところで止まり、こちらを振り返って目を点滅させた。ついてこいと言っているらしい。
 私は棺桶の縁で自分を支えながらなんとか立ち上がった。全身がだるくて思うように動かない。棺桶をまたいで白い床に立つ。はだしだった。足元はぬるくなめらかで、やはりぼんやりと光っている。一瞬、歩き方がわからなくて戸惑ったが、一歩踏み出せば後は簡単だった。

 私は黙ってそのロボットの後をついて歩いた。音もなく開いた自動ドアをくぐると、廊下に出た。天井は高く、道も広い。そして今しがた後にした部屋と、床も壁も天井も全て同じ白だった。ただ、光っているのは天井だけだ。
 私は、広いだけで殺風景な廊下をロボットの後をついて歩いた。人気はなく、ロボットの移動音だけが微かに聞こえる。歩いている途中、いくつか自動ドアがあったが、どれも固く閉ざされていて開く様子はなかった。
 しばらく歩いたところでロボットは立ち止まり、自動ドア脇の電子盤に向かって腕先についている指のようなものをあてる。すると短く機械音が鳴ってドアが開いた。そこは狭い個室で、イスが数脚並べられているだけの簡素なものだった。

『しばらくこちらでお待ち下さい』

 ロボットはそう言うと、私を部屋に残して出て行ってしまった。ドアに近寄っても開かず、どうすることもできずにイスに腰掛ける。
 それからどれくらい時間が経っただろうか。数時間経ったような気もするし、数十分しか経っていないような気もする。とにかく退屈だった。でもこうしてぼんやり待っているうちにだんだんと自身のことを思い出してきた。私は、働いていたはずだ。研究者だった。家には帰らず仕事場で生活していた。職員は皆そうだった。少し特殊な職場だった。
 何の前触れもなく、入ってきたときとは反対方向のドアが開く。私は驚いて視線を向けると、同じ型のロボットが入ってきた。

『お待たせいたしました。こちらへどうぞ』

 そう言って通された部屋は、これまでと同様に壁も床も白く、殺風景だった。一つ、大きく異なったのは、人がいたことだ。彼は、白衣を着て、妙に広い部屋の真ん中にぽつんと座っていた。手元のパネルに目を通していたが、私が部屋に入ってきたことに気がつくと顔をあげて微笑む。落ち着いた雰囲気の男性だった。綺麗な顔立ちをしており、柔らかな黒髪を横に流している。外見からは年齢が予測できず、三十代と言われればそう見えるし、二十代前半と言われても納得してしまうだろう。どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。
 男性は自分の目の前のイスを指して「どうぞ、おかけになってください」と言った。私は指示通りにイスに座る。

「おはようございます。気分はどうですか。吐き気や眩暈、だるさはありませんか」
「……少し、身体が重い、です」

 男性はパネルに何かを入力する。

「この部屋に来るまでの様子を教えてください。できれば詳しくお願いします」

 奇妙な質問だと思ったが、私は素直に自分が見たものを伝えた。彼はまたパネルに何かを入力し、別の質問をする。わけがわからなかったが正直に答え、彼がパネルに入力する。それを繰り返した。紙に図形を描かされることもあった。

「被験者No.759さんは」

 それが今の私の名前のようだった。

「どうして自分がここにいるのかわかりますか」
「……いいえ」
「自分が何の被験者だったかわかりますか」
「いいえ」

 質問は長く続いた。質問内容は好きな食べ物から近年の社会情勢まで、実に雑多だった。

「最後の質問になりますが、被験者No.759さんは犯罪をどう思いますか」
「……怖いです。いつ自分が巻き込まれてしまうか心配です」
「ありがとうございます」

 そう言うと彼は、じっと私の顔を見つめてきた。身嗜みが整っていないのかと思って、咄嗟に髪を撫でつけたが、彼が気にしているのはそんなことではないようだった。彼は立ち上がると私の目の前にやってきて、私を見下ろした。

「……ずっと会いたかったよ」

 彼は大きな声でそう言うと、私を緩く抱き締めてきた。ぎょっとして身体が硬直する。名前すら知らないような人間にこんなことをされる道理はない。目を白黒させていると、彼は口を耳元に寄せてきて、小さく囁いた。吐息が耳にかかってくすぐったい。

「許してくれ、監視があるんだ。きみに頼みがある。叶えてくれたらきみに全てを教えよう。俺の部屋から蛇の模様がついている指輪を持ってきて欲しい。部屋のロック解除キーはhydraだ。ここの職員だったきみなら場所はわかるだろう」

 彼はすぐに身体を離すと、少しだけ寂しそうな顔をした。

「突然すまなかった。けど久々に会えて嬉しかったよ。それじゃあ、三日後の検診でまた会おう」
 あえて周囲に聞かせているかのような声量だった。しかし、巧妙な表情と声色は演技とは思えないほどだった。



 その後、私は例のロボットに連れられて部屋を出た。
 いくつもの部屋を通り、長い廊下を渡り、エレベーターに乗り、再び廊下を歩き、鉄製の重い扉をくぐった先の部屋は、それまでとは景色が全く異なった。薄汚れたリノリウムの床に、染みが浮かぶ壁と天井。脇の壁には奥までずっと扉が続いている。安いホテルのようだった。ロボットは相変わらず静かに進む。私はその後をついて歩く。この小汚い空間を歩いているうちに、私はだんだんと思い出し始めた。

 確かに、私はここで働いていた。何人もの職員と共にこの寮で生活していた。生体維持の研究をしていた。組織では末端の人間だったから、この研究の目的も用途も知らされていなかった。ただ人の役に立つことだと言われてきた。それならば医療用の研究なのだろうと思っていたが、医療へ活用するにしては不気味な場所だと感じていた。職員の所属はいくつかに分かれており、寮では階によって区切られていたが、六階は各所属の責任者の個人部屋が集められていた。一般の職員は出入り禁止とされていたため行ったことはないが、恐らく綺麗で広く設備が充実している部屋なのだろうと仲間内でよく話していた。
 ここまで思い出して、ようやく気がついた。さっきの白衣を着た男性、どうりで見覚えがあるはずだ。彼は神経科学部門の責任者で、名前はたしか、平良繚、のはずだ。世間は彼のことを稀代の天才科学者と声高に謳い、その筋で彼を知らない者はいない。事実、彼はそれまで人類が成し得なかった業績を積み上げてきた。しかもおおよそ三十歳という若さでだ。間接的な形ではあるが、彼の発見のおかげでその命や人生を救われる人間もいるだろう。……いや、少し大げさだったかもしれない。とにもかくにも、彼は多くの科学者の憧れであり希望であった。私もまたその一人である。そんな彼がなぜ監視されているのだろうか。なぜ助けを求めるようなことをするのだろう。

 そのうちにロボットは移動を止めて、私の方を振り返った。ロボットが案内したのは、何の変哲もない一つの扉の前で、しかし見覚えのある場所だった。私は自然と次に何をすべきかがわかった。電子パネルに指によく馴染んだ暗証番号を入力すると、目の前の扉は少しぎこちなく開く。そこは、私が職員として働いていたころに使っていた一室だった。当時とほとんど変わっていない。うっすらと埃が積もっていて、懐かしさとよく似た何かが込み上げた。
 しかし、相変わらず自分の名前は思い出せなかった。



 それからはとにかく暇だった。ロボットは、三日後の検診までこちらでごゆっくりお過ごしください、お食事はお持ちしますので、と無機質な音声を発して去っていった。この棟には今は誰もいないようだった。しんと静まり返った寮は、物寂しく気味が悪かった。
 私はとりあえず部屋の中を物色した。愛用していたペンがそのままペン立てに入っていたかと思えば、身に覚えのない本が積まれてあったりして、どうにもいびつだった。そんな調子であちこちを見て回っていたが、机の引き出しを開けたとき、手が震えた。引き出しの中には透明な瓶に入ったラムネのような錠剤や粉薬、注射器などが入っていた。こんなものを机に入れていた覚えはない。何の薬かはわからなかったが、背筋が寒くなって引き出しを押し込めた。それ以降は部屋を漁るのはやめにした。
 ベッドに横になって天井を仰ぐと、気になってくるのは平良の言葉だ。彼はあのとき、私に向かって久しぶり、会えて嬉しいなどと話していたが、唯一彼と接点のある働いていたころでも、ごく稀に彼を遠くから見かけることはあってもお互い話をしたことは一度もない。彼の言う『監視』を欺くための一芝居だったのだろう。
 彼がどんな理由で監視されているのかは知らないが、あれほどの科学者の頼みだ。断る理由はない。それに、『全て教える』という言葉も引っかかった。自分の名前の他に知りたいと思うことはないけれど、教えてくれるというのなら聞いて損はないだろう。
 私はベッドから起き上がりゆっくりと伸びをして、部屋を後にした。



 責任者が使っていた六階には問題なく辿り着くことができた。
 六階は他の階とは異なり、壁も床もシックな黒色で統一されていた。廊下を歩くと自動で青白いライトが点灯する。少し埃っぽかったが、汚れはほとんどなかった。
 部屋がいくつも並んでいたが、扉の脇にネームプレートがかかっていたため彼の部屋はすぐに見つけることができた。扉を開けるための生体認証システムは壊れていて、ネームプレートの下に設置されている画面には『パスワードを入力してください』と表示されている。
 私は彼が教えてくれた『hydra』を入力した。ヒュドラはギリシア神話に出てくる九つの頭を持つ毒蛇だ。九つの頭の内一つが不死で、他の頭を切っても何度でも再生したという。最後は英雄ヘラクレスに倒され、しかしヘラクレスもまたヒュドラの毒で死んだのだ。
 認証が終わると間もなくランプが青く点灯し、扉が開いた。

 部屋の中は外と同じように黒が基調となっており、設備も充実していて高級感があった。なにより広く、一般職員が利用していた部屋の三倍はあるような気がする。彼の部屋は絵画のように整然としており、机の上にマグカップとペン、それにファイルが放置されていること以外はまるで生活感がなかった。本棚にはぎっしりと本が詰まっており、そのどれもが開くのをためらうような難しいものばかりだった。
 なんとなく机に寄ってみると、ずいぶん埃が溜まっていることに気がついた。しばらく使われてないのだろう。目の前にあったファイルを開くと埃が舞い上がる。中には新聞が丁寧に切り抜きされていた。地域や時期といった関連性はなかったが、そのどれもが殺人事件もしくは行方不明者の記事で、二、三十件はありそうだった。
 私はファイルの下に挟まっていたホチキス止めの紙束に気がついて、目を通してみる。表題は『再犯防止プログラム有中町 概要』だ。『目的』と書かれた小見出しを読むと、そこには次のように書かれていた。

 近年の社会情勢の不安定化に伴って、世界的に犯罪率が上昇した。我が国も例に漏れず治安悪化が深刻な社会問題となっている。その中でも特に注目すべき点は再犯率が六割を超えていることだ。再犯を防止できれば犯罪数減少へ繋がると考えられる。
 そこで、本プログラムでは犯罪者が更生可能か選別し、更生が可能と判断された者は犯罪にまつわる記憶を消去した上で釈放、更生が不可能と判断された者は無期懲役を科すものである。
 方法としては、犯した犯罪に関する記憶を消去し、初犯時の年齢と精神状態で生活させた場合、犯罪を行うかどうかを記録するというものだ。その際に注意する点として――

 これが私たちの研究の正体だったのだろうか。しかし、今となっては研究の目的など興味がなかった。紙面には正統性の検証や方法などが長々と綴られていたが、小難しい上に興味が湧かず、私はそれを机の上へと戻した。
 彼に頼まれていたのは指輪を持ってくることだった。この広い部屋から小さな指輪を探すとなると骨が折れそうだと頭を掻いたが、私の予想は大きく外れ、彼の机の引き出しからあっさりと見つかったのだった。それは中世の貴族が身につけているようなごてごてしたもので、彼の華奢な指には似合いそうもない。真ん中には蛇の紋章が記された楕円の飾りがあった。
 私は指輪をこっそりとポケットに忍ばせて、彼の部屋を出た。



 三日後の検診日となった。
 私は再び例のロボットに連れられて長い道のりを歩いた。今では建物の構造もどの部屋に誰が生活していたのかもわかる。今歩いている廊下は、職員寮が使われていたころにはなかったものだ。後から増築されたに違いない。この廊下に窓はないが、おそらく別の建物へ繋がっているのだろう。三日前とは違う道を通って、ロボットはとある部屋の前で停止した。『中へお入りください』と促され、私は自動で開いた扉をくぐる。
 案の定、そこには天才と呼ばれる脳科学者、平良繚がいた。三日前と同じように白衣を着て広い部屋の真ん中のイスに座っていた。私が部屋に入ってきたことに気がつくと、やはり同じようににこりと微笑んで彼の前に置いてあるイスに座るように言う。私は彼の指示に従ってイスに座った。不思議と逃げ出したくなるような緊張があった。
 彼は少しの間手元のパネルを操作していたが、何かの入力が終わると顔を上げた。

「おはようございます。気分はいかがですか」
「……探し物が見つかりました」

 すると彼は目を丸くした後、待ちきれないとでもいうように口元を歪めた。静かに席を立って私の前で立ち止まり、無言で手のひらを差し伸べる。私はそんな彼の様子にどことなく恐怖を覚えつつも、金色の指輪を渡した。彼はその質感や重量を確かめるように指輪を握りしめると、私に向かって笑いかけたのだった。しかしその笑顔は、穏やかな微笑みではなく、獲物を捕えたときの猛獣のそれだった。

「ありがとう。助かったよ、"与成奈菜乃"さん」

 彼の言葉が終わるや否や、スイッチが入ったような、パチンという音が脳内に響いた。途端に目の前が真っ白になった。激しい眩暈がして思わず頭を抱えて身体を折る。膨大な量の映像がチカチカと浮かんでは消えていく。頭が痛い。吐き気がして涙が滲んだ。流れ込んできたのは記憶だった。小さな町で学校生活を送る自分の記憶だった。あやふやで、本当にあったのかどうかも証明できない、幻のような時間だった。些細な出来事をきっかけに暗く深い淵に突き落とされて、もがいてもがいてどうにか足のつく地面を見つけたような場所だった。
 すうっと記憶が染み渡って、焦点も定まらないまま呆然と顔を上げた。

「……思い出した?」

 そうやって薄ら笑いを浮かべているのは、人殺しが楽しいと言った平良繚だった。目の前の彼はあのときの彼よりも大人びた顔つきをしていて、相変わらずうさんくさい笑顔をしていた。

「与成さんだけ、特別。ねえ、俺が言ったことわかっただろ?」
「本当、なの……」
「嘘だと思ってた?」
「だ、騙してたんだ。みんなのこと。あなたを信じてる大勢の人たちのこと」
「騙す? 俺はたしかに神経科学の第一人者だよ。俺の研究成果に嘘や偽りはない。与成さんの言うそいつらは俺のもう一つの顔を知らないってだけでさ、勝手にイメージを作ってるのはそっちの方。でも、イメージって大事だよね。数日前の与成さんは『あの有名な科学者の頼みなんだからきいてみよう』って思っただろう。おかげで本当に助かったよ」

 私は何も言えなかった。彼は表向きは高名な科学者で、裏では救えない殺人鬼。あの町の出来事が夢ではなく彼らが作り上げた仮想世界のものだったのだと、今では何の疑いもなく事実として自分の中に溶け込んでいた。

「珠姫ちゃんとか、陸とか、布目路くんは、」
「さあ。みんな与成さんより先に目覚めたけど、俺の担当じゃなかったからどんな診断になったかはわからない。監禁されてる俺には被験者の診断結果は教えてもらえないし」

 ところで、と彼は指輪を見せびらかすように持つ。

「与成さんのおかげでようやくここから逃げ出せる」
「何をするつもり、なの」

 逃げると言っても、指輪一つで何かできるとは思えなかった。どういうつもりで指輪を持って来させたのか見当がつかず、不安ばかりが大きくなっていく。

「これ、飾り部分が開くんだよ」

 彼が指輪をいじると、ぱかりと蛇の紋章がついた飾りが開いた。そこから取り出したのは小さなカプセルで、彼はそれを戸惑いなく口に放ってごくりと飲み込んだのだった。

「何かあったときのためにって準備しておいたんだけど、使うことになりそうな場面なんてないからすっかり忘れててね、仕込んだ指輪を部屋に置きっぱなしにしてたせいで全く意味を成さないインテリアになってしまっていたよ。さすがに自分の迂闊さを呪ったね」
「そういうことを聞きたいんじゃないの。さっきのカプセルは何だったの」
「即効性の毒薬。眠るように緩やかに鼓動を止めることができる」

 ぎょっとして私は言葉を失った。彼はさっきビタミン剤でも飲むかのように口に放り込んでいたではないか。

「こ、ここは、有中町じゃないんだよ、現実の世界だよ。死んだらもう終わりなんだよ」
「当たり前じゃないか。俺が取り違えるわけないだろ。あのプログラムが完成したら、どうせ俺はここから出ることなく殺される。そうだろ、お偉いさん方?」

 彼はどこか空中に向かって問いかけた。監視カメラでも設置されているのだろう。何の音沙汰もなかったが、彼が気にする様子はなく、最初に自分が座っていたイスに腰を下ろすと再び私に向かって話始める。

「こんなところで飼い殺されてるくらいなら死んだ方がよっぽどましさ。俺は俺が殺人鬼の平良繚であることに誇りを抱いているし、自分のことを好きなものをひたすらに追求できる世界一幸運で幸福な人間だと自負している。こんなところで他人にこの命を握られて生涯を終えるなんて許されないし、それに俺はせっかちなんだ。でも痛いのも苦しいのも嫌いでね、他人から与えられる痛みなら耐えようが、自分で自分を痛めつけるのはどうにも怖くて捗らない。だから、ものを頼みやすいきみがいてくれて助かった」
「でも、だって、自分のことが知りたくて脳の研究を始めたって言ってたじゃない。研究者として諦められないこともあるでしょ」
「俺が本当に知りたかった記憶の秘密は、昔に比べてずいぶん進歩したはずの現代科学でも解き明かせなかった。科学では証明できないものがあるんだと、改めて突き付けられた気がしたよ。だからもういいんだ。充分楽しんだし、未練なんてない」

 そうやって話をしている間に、だんだんと彼の声から力が抜け始め、ゆっくりと夢見心地な口調になっていった。

「ねえ、きみのことはずいぶん利用させてもらったけど、俺のことが憎いって言うんならその手で俺の首を絞めてくれてもいいんだよ。今度こそね。最後のチャンスってやつだ」

 私は首を横に振った。冗談じゃない。

「そうか、残念だなあ」

 そう言うと、彼は瞼を閉じた。

「あのさあ、与成さんは、どうして人が人を殺してはいけないと思う?」

 私は少し考えた。考えて、できるだけ慎重に答えた。これはきっと彼からの挑戦状であり"最後のチャンス"なのだ。倫理や道徳について語る気にはなれなかった。そんな話をしたら彼に鼻で笑われるに違いない。彼をやり込めることはできなくても、彼とやり合う上で自分は対等な場所にいるのだと思わせたかった。

「人はルールがなければ集団で生活できないから」
「へえ、なるほど。そうだね、人は人が作った檻の中にいることを覚えておいた方がいい。檻が必要な動物だってことも」

 私が想像していたよりもずっと素直な反応で、拍子抜けしてしまった。
 そのうちに彼の声はどんどん弱々しくなっていき、もう彼が呼吸しているのかもほとんどわからなかった。

「……また会うことがあったら、よろしくね」
「絶対に嫌」
「つれないなあ」

 そう言って彼は少しだけ笑って、その表情からもゆっくりと力が抜けていった。全身がゆるりと弛緩して、それから、彼が口を開くことは二度となかった。
 私は、その安らかに閉じられた両目が、満足そうな口元が、穏やかな表情が、憎くて憎くて仕方がなかった。人殺しのくせに幸せそうな顔をして。一方的に巻き込んで一方的に終わらせて、身勝手もいいところだ。それなのになぜだか目が離せなかった。今すぐ叩き起こして土下座させてやりたくなったが、彼はもう動かない。しかしどうせ彼に謝らせることができたとしても、蔑んだ目で私を見てやれやれと頭を下げるのだろう。きっと彼が心から謝罪することはない。私が罪を認めろと迫ったら、罪とは何かを問うのだろう。

 私の後ろで自動ドアが開いたかと思うと、数人がどたばたと入ってきた。怒声やうるさい足音が飛び交って、真っ白な部屋で反響する。ぼんやりと白く光る部屋の中、イスにもたれかかる彼の亡骸は人形のようだった。


 (終)


(2014/10/19)


 

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