彼女の言葉の後、間ができた。二人の息遣いだけががらんどうの部屋に響いている。窓からわずかに差し込む橙色の陽光の中で、埃が舞い踊っていた。日没は近い。
繚は制止したまま、無表情で彼女を見つめていた。奈菜乃はその反応を見て、彼も気付かなかったに違いないと笑みが零れた。繚はぽつりと呟く。
「通学用鞄、外側左ポケット」
彼の抑揚のない声が室内に響いた。朽ちたがらくたたちがじわじわと音を吸い込んでいく。
「制服のズボン、右脚先端の内側。ローファー、左足裏側」
全て、奈菜乃たちが繚に盗聴器を仕掛けた場所だった。体育の授業を休んで、気付かれないように慎重に取り付けていたはずだった。
呆然とする奈菜乃を前に、彼は顔を歪めて笑う。
「気付いてないと思った?
あっは、ケッサクだねえ」
奈菜乃はぎりりと奥歯を噛んだ。一気に焦燥感に駆られる。本当に頭の切れる男だった。もしかしたら、だめかもしれない。
「さて、もういいかな。ここまで焦らしたんだ、存分に楽しもうよ」
そう言うと繚は、奈菜乃を押さえつけている左手に力を込めた。彼の爪がぎちぎちと腕に食い込んで、彼女の喉から呻き声が漏れる。睨んでやろうとしたが、思うように表情が動かなかった。
繚はナイフをくるりと回してから持ち直し、息を吐いた。微かに頬を上気させ、切なげに奈菜乃を見つめている。刃の先端を彼女の顔に持っていき、ゆっくりとその頬を撫でた。彼の熱っぽい息遣いとは反対に、ナイフは氷のように冷たい。
彼の爪が食い込んでいる右腕がじんじんと熱を持って痛み出す。恐怖で身体は動かず、心臓がうるさく騒いでいる。だんだんと意識が遠くなってきて、涙が顔をつたったのが他人事に感じられた。いっそ早くしてくれと頭のどこかで叫んでいた。
次に彼は彼女の左側の首筋をナイフでなぞり、そのままそれを左腕に移動させた。内側の柔らかいところから血管を辿るようにしてナイフを滑らせる。つ、と薄く赤い線が浮かんだ。ナイフが手のひらまで辿り着くと、手首の動脈を愛おしげに数度撫でるのだった。それから手首に顔を寄せたかと思えば静かにそこに口付け、ナイフが突き立てられている手のひらに唇を這わせた。彼女の指先がびくりと跳ねる。彼は彼女の肌を柔く食むと、手のひらに溜まっている血を舐めとった。彼の黒髪がさらさらと流れ、髪先が血で汚れる。
それから彼は、右手を奈菜乃の首元へと運び、確かめるように頸動脈に触れた。脈は早く、そこには絶え間なく血液が流れている。彼女は唾を飲み込んだ。怯える彼女を堪能するように微笑むと、唐突に彼は話し始めた。
「手首を切ってもさ」
彼は唇についていた血に気がついたのか手の甲で口を拭う。
「簡単には死なないんだよね。切り落とすなら別だけど。怖がらなくても大丈夫、そんなにすぐに死なせないから」
そう言うと彼は、いよいよナイフで彼女の左手首を切りつけようとした。そのときだった。
「え、何で、」
「何突っ立ってんだよバカ!」
部屋の外が騒がしくなったと思った瞬間、勢いよくドアが開いた。
「奈菜乃から離れろこの変態!
これで勝てたと思ってるなら大間違いだからな!」
息を切らせながら飛びこんできたのは陸だった。繚はうんざりした様子で彼女に目線をやったが、次の瞬間、入口で立ちすくんでいる人影を見つけて固まった。ゆるりと奈菜乃の腕を離し、その人影に向き直る。
「……お前、いつから」
唇が震えていた。その言葉を向けられた人物、邦緒もまた、真っ青な顔をして、震えていた。
「嘘、じゃ、」
邦緒は呆然と目の前の殺人鬼を見つめている。繚が数歩だけ不安げな足取りで歩み寄ると、邦緒はじわりと後ずさりした。それは紛れもない拒絶だった。
そんな友人の姿を見て、繚は一瞬、迷子の子供のような顔をした。けれどすぐにその瞳には怒りが灯り、拳を握りしめ、口端を噛む。そのまま脚を踏み出し、邦緒に向かって風を切って突進した。奈菜乃は、いつか神社で一刺しにされた少女の姿が脳裏に浮かんで、危ない、そう思った。けれど脳のシグナルは身体に届かず、動くことができない。
繚は手荒く邦緒の襟元をつかんで引き寄せると、握りしめた右手を大きく振り上げた。奈菜乃は、彼も殺されてしまうと感じたが、瞼を下ろすことはできなかった。
次の瞬間、しかし、邦緒は大きく殴り飛ばされた。人を殴る鈍い音と、地面を転がる音と、呻き声がごちゃまぜになる。
繚は、肩を震わせ、息を乱し、彼に似つかわしくない乱雑な言葉で怒鳴りつけた。
「怯えた目ぇしやがって!」
こんなに彼が取り乱したのを始めて見た。年相応の少年のようだった。いや、そこにいたのは薄ら笑いを浮かべる殺人鬼などではなく、ただの一人の少年だった。
エスカレートする彼の所業に巻き込まれ、どこかでやはり彼は鬼か悪魔なのだと思っていた。彼にもきちんと血が通っていたのに、その腕は温かかったのに、そんなことはすっかり忘れていた。もちろん彼に人間味があったとは言わない。悪魔か化物とでも言ったほうがしっくりくる。けれど、再三述べているように、その心全てを悪魔に売り渡したのではなく、彼にだって少なからず人間の心が潜んでいたのだ。
奈菜乃は、彼に人殺しを止めさせるという点で、大きな間違いを犯したということに直感的に気がついた。
殴り飛ばされた邦緒は、だんだんと思考を取り戻してきたようで、頬を押さえながら立ち上がる。
「痛いだろーが!」
その声に困惑と怒りを滲ませながら、今度は邦緒が繚につかみかかった。しかし繚は焦る様子もなく、ナイフを持ち直すとぴたりと彼の首元に突き付けたのだった。柄を握るその手には力がこもり、刀身が微かに震えていた。
「りょーちゃん、なんで」
「お前が泣きそうな顔してんなよ」
「な、泣きそうな顔してるのはどっちだよ!」
邦緒はナイフを持つ繚の腕を乱暴につかんで、その凶器を取り上げようとする。彼は抵抗する様子なく力を緩めたので、それは簡単に邦緒の手に渡った。邦緒が唇を噛み締める姿を見て、彼は諦めたように目を伏せる。
二人が問答している間に、陸は奈菜乃の元に駆けつけて、ナイフを引き抜き簡単に手当てをしていた。全身が冷えて震えが治まらない奈菜乃を見て、陸はなだめるようにその頭を撫でる。彼女が「がんばったよな、もう大丈夫だから」と囁くと、奈菜乃は頷き、気合を入れるために自分の頬を叩いた。それから落ち着いた声で陸に礼を言って、すっと視線を彼らに移した。陸もそれに倣い、黙り込んでいる二人に向かってこう語りかけた。
「話はついたか?
こっちからもお前らに話があるんだよ」
二人はようやく気がついたとでも言うように陸と奈菜乃を見る。
「布目路、気付いてないだろ。盗聴器、お前の制服にも仕掛けてるんだよ」
邦緒はぽかんと口を開けただけだったが、対照的に繚はさっと顔を強張らせた。
「お前いつからここにいたんだっけ」
その場はしんと静まり返る。邦緒は何も答えない。
「『俺に何を求めてるのかは知らないけどさ』……ここからだったよな。盗聴器はどれか一つでも残ってたらよかった。見破られっぱなしだったけど、さすがに布目路までチェックはしてなかったみたいだな」
陸は勝ち誇った顔をして繚を見た。当の本人は、慌てる様子などこれっぽっちもなく、至って冷静だった。さっきの動揺ぶりが嘘のようだ。
「盗聴してたから何だって言うんだ。それで俺をどうにかできると思ってんの」
「それができるんだな。今珠姫がやってるんだけど、この会話、生放送真っ最中だよ。町内のスピーカーを使ってね」
このとき珠姫は、防災無線の放送室にいた。放送室の管理者と職員が、珠姫の後ろで不安げに顔を見合わせている。彼女は盗聴器で拾った音を町内の各地に設置されているスピーカーから流していたのだった。
道路では大勢の人が立ち止まり、建物の中にいた人も、窓を開けたり外に出たりしてその放送を聴いていた。
彼を知っている人は唖然としてスピーカーを仰ぎ見、そうでない人は危険人物の存在に身を震わせた。恐ろしさに泣き出す者もあれば、早くそいつを拘束して閉じ込めろ、と声があがることもあった。突然のことに町中が動揺していた。
学校でも大騒ぎだった。初めはわけがわからないといった風の生徒たちも、次第に事態が飲みこめてくると、やんややんやと騒ぎ始めた。教師がいくらなだめても言うことを聞かない。憶測が飛び交い、嘆きと中傷の声に飲み込まれて学校中が混乱していた。
「お前が人殺しが楽しいって言ってたことも、奈菜乃を襲った様子も、全部流れてるんだよ」
それでも繚は、背筋をぴんと伸ばしてそこに立っていた。慌てる気配は微塵も感じられなかった。そうして彼は疲れたようにため息を吐く。
「ひとつ聞くけど、なんで布目路はここがわかったんだ」
「お前が殺人鬼だって布目路にばらせば、お前の後をつけるだろうと思ってた。だから中途半端に巻き込んでおいて、奈菜乃が昨日の夜にお前の秘密を話したんだ。
それで今日、珠姫が携帯で布目路に電話した。『平良が町に出て行く姿を見かけたけれど様子がおかしい。後をつけてみるから布目路も来てくれないか。それと今後は音を出さないようにメールでやりとりする』って。それから珠姫の携帯とあたしの携帯を交換して、珠姫は放送室へ、あたしは布目路に嘘を交えながら逐一情報を流して誘導してたんだ。
平良が行きそうな人気のない場所は、三人で事前に調べてチェックしてた。二人がプールに行ったところまでは奈菜乃の携帯電話のGPS機能でわかってたから、プールから近い数か所に目星をつけて、先回りしつつ後をつけてた。途中で撒かれたときは焦ったけど、一番可能性の高そうな場所へ布目路を行かせてあたしは他の場所を回ってたんだ。もちろん二人とも自転車でな。そしたら一発目からビンゴだったってわけ」
布目路は愕然と周りを見渡す。怒ればいいのか悔しがればいいのか、はたまた許せばいいのか自分でもわからないようだった。繚は「だから関わるなって言ったのに」とぼそりと呟く。
ビルの外から人の話し声が聞こえてきた。埃を被った窓から外を覗くと、数人が廃ビルの近くで様子を伺っているのが見える。
「場所は放送してあるし、そろそろここにも野次馬が集まってきたんじゃないかな。もう逃げられないぞ」
繚は憎々しげに全員を睨みつけた。先ほどまでの冷静さはどこへやら、今は全身から殺気がほとばしり、室内は異様な空気に飲まれている。しばらく緊張の糸が張り詰め、誰も動かなかった。
それを破ったのは繚だった。その場の空気にそぐわない笑い声が、くすくすと漏れる。次第に我慢できないというように声が大きくなっていき、しばらく不気味に高笑いを続けた。ようやく収まったころ、彼はこれまでの仮面を脱ぎ棄てて、殺人鬼の本性を包み隠さず突き付けたのだった。彼は髪をかきあげて見下すように目を細める。別人のように大人びていた。誰もが呆気に取られていると、彼は妙に演技がかった仕草で拍手をした。
「これは一本取られたね。確かにこれじゃ俺はどこにも逃げられない。小さく閉鎖的な世界だからこそ可能だったわけだ。そこまで対策を練ってくるほどきみたちが賢いとは思わなかったよ。俺の慢心が招いた結果でもある。いいとも、負けを認めよう」
「随分勘に障る言い方するじゃん」
陸が嫌悪感を丸出しにして眉をしかめたが、彼は完全にそれを無視した。
「それで、一つ聞かせてよ。与成さんはきみたちに全て正直に話したのかな?」
奈菜乃はひやりとした。途端に足元の感覚がなくなる。声が出ない。愉快気な彼の声が部屋に響いている。彼は目を細めて首を傾げた。
「俺も彼女には二回ほど殺されてるんだけど、その話は聞いてるかい?
一度目は石段から突き落とされ、二度目は彼女自身がその手で俺の首を切ったんだ。ねえ、人を殺した感触はどうだった?」
奈菜乃は自分に視線が集まるのを肌で感じた。指先がぐっと冷える。何も考えられない。
「嘘だ。二度も殺されたって、お前は今ここに生きてるだろうが」
「ああそうか、そこからか。面倒だな。有中町では死んでも次の日には生き返るよ。嘘だと思うんならこの後誰か殺してみたらいいんじゃないの」
「奈菜乃、本当の話なのか?」
陸は困惑した様で奈菜乃を見た。
奈菜乃はというと、パニックになって全く頭が働かなくなっていた。だから今この会話が中継されているはずだということは抜け落ちてしまっていたし、黙っていればいいとか嘘をつけばいいとか、そのとき自分がどんな覚悟をしたのかとか、そういうことが一つも浮かばなかったのだ。
「だって、一回目はほとんど事故だったじゃない!
そうでなくても正当防衛だった! 二回目は、あんたが脅してきたから!
私だってやりたくなかった!」
「見苦しいね。でも、与成さんがここで本当のことを言える誠実な人でほっとしたよ」
繚は狂ったように笑い始めた。奈菜乃は目の前が暗くなってへたりこむ。自分が周りからどんな目で見られているのか恐ろしくてたまらなかった。
「なんにせよ、人を殺せる人間だよ、そいつは。普通はできないよ。他人のために誰かに手をかけるなんてさあ」
「黙れよ」
繚の高笑いを制止したのは、陸だった。親の仇を見るような形相で彼を睨んでいる。しかし、彼が気にする様子はない。
「それで俺だけ断罪されるなんておかしな話じゃないか。ねえ、この会話も流れてるんだろ?」
「黙れって言ってるだろ。今はお前の話をしてるんだよ。話をすり替えるな。それにあたしたちは奈菜乃を信じるよ」
「はあ?」
そのとき、陸の携帯電話が点滅した。珠姫からの電話だった。陸は繚を睨みながら電話を取り、一言二言会話をして電話を切った。そしてしたり顔でこう告げた。
「珠姫からの電話、もう中継を切ったから今の会話は流れてないって」
瞬間、奈菜乃は安堵で力が抜けた。不安はあったが、今は陸が信じると言ってくれたことが何よりの支えだった。対する繚は舌打ちをして「つまらないな」と眉をしかめる。
部屋の周りがだんだんと騒がしくなり始めていた。見ると、入口のすぐそばまで野次馬が集まっている。しかし、見えない壁があるかのように、彼らは部屋に一歩も入ってこようとはしなかった。
どこの誰がやったのかはわからない。けれど、野次馬のうちの一人が繚目がけて石を投げ込んだ。それは彼には当たらず、ころころと床を転がる。それを皮切りにして、次々と石やら空き缶やら瓦礫やらが繚に向かって投げ込まれ始めた。突拍子のない方角に飛んでいって床や壁に当たるものが多かったが、それでもいくつかは確かに彼の肩や背中にぶつかって、ごろごろと転がった。
繚はぎろりと部屋の外を睨んだ。視線で人が殺せそうなほどに殺気立っていた。
「部外者に場を荒らされるなんて心外だよ。関わる勇気もないくせに。失せろ」
すると、石を投げ入れる手はぴたりと止まった。しかし、次に投げ込まれたのは言葉だった。
「そいつを殺せ」
「そんなのがいたらおちおち外出もできない」
「同じ痛みを与えろ」
「殺してしまえ」
「人間とは思えない、殺そう」
殺せ、殺せと呪いにも似た声が幾多にも重なって、うねり渦巻いている。人々の熱気と濁音が渦を巻き、ひとつの巨大な怪物を形作っていた。繚は肩をすくめる。
「あーあ、こんなに騒ぎを大きくして」
「元はと言えばお前のせいだろ」
辺りにはひっきりなしに殺せ、というコールが響いていた。
繚は、どうすることもできずに突っ立っているだけの邦緒を見て、その手からナイフを引ったくった。そうして彼はうんざりとした様子でどこへともなくナイフを差し出す。
「そんなに殺したいなら殺せばいい。さあ、どうぞ」
邦緒は青い顔を一層青くしてはくはくと口を動かしたが、言葉にはならなかった。
しかし、煽る群衆も、部屋の中にいる彼らも、誰ひとり動かない。野次馬たちが狂ったように同じ言葉を繰り返すだけだ。奈菜乃は、その不気味さに背筋が寒くなった。そして立ち上がって繚と対峙する。
「……ここであなたを殺したってどうにもならない。どうせ死んだりしないんだから」
「じゃあどうする」
「どこか、暗くて頑丈なところに閉じ込めておく。二度と誰かに手をかけることがないように」
「ふうん、賢明だね。俺にはここを突破できない。どうぞ、好きにしたらいいさ」
そう言って彼は見下すように笑った。それから口を閉じ、後はただ空中を見つめるだけだった。
奈菜乃たちが繚についてくるようにと促すと、彼は大人しく指示に従う。部屋を出る間際、一言だけ、邦緒に向かって「悪かったな」と呟いた。そうしてすぐに背を向けたのだった。
その後、廃ビルの地下に鍵がかかる小さな部屋があったので、そこに繚を閉じ込めることにした。後で内側から開けられないように鍵をいじるとして、見張り役が必要だったから、その場にいた野次馬たちをとっ捕まえて交代で彼を見張ることにした。ルールを決めている最中に姿を消す人も多かったが、彼女たちはあえてそれを咎めるようなことはしなかった。
(2014/10/1)