十四.月曜日:0265






 

  計画の最大の目的は、彼が殺人鬼である証拠を手に入れて公表することだった。手段はいたって単純、犯行現場を録画・録音するというものだ。
 だが、そのために他人が殺される場面を黙って見ていることはできない。そこで奈菜乃は、自分に小型カメラと録音機を仕込んで囮になることを申し出た。二人は渋ったが、奈菜乃は諦める気はないようだった。

「たぶん、平良くんは私のこと殺してみたいって、まだ思ってるはず」

 少しだけ、声が震えた。悟られないように腹に力を込めて、気丈な風を装う。

「私が誘えばきっと乗ってくれる。それに、ここで行かなきゃ逃げたみたいで嫌だ」

 二人はやはり迷っていたが、奈菜乃がどうしても引かなかったので、最終的には奈菜乃が囮になることを認めたのだった。

「ちゃんと助けるからね」

 珠姫はそう言ったが、奈菜乃には助けてもらえるような隙があるとは思えず、眉を下げて笑っただけだった。


 彼が殺人鬼であると世間に知らしめれば、彼は社会的に生きていくことはできないし、みんなの同意のもと拘束して閉じ込めておくことができる。証拠さえつかめればよかった。

「それだけ? 人殺しを楽しむような異常者なのに。なんつーか、もっと見合った罰ってあるんじゃないの?」

 一度転がり出した車は一人の力では止めることができない。奈菜乃はなぜだかドキリとした。
 彼は肉体的な暴力に屈するような人間ではないと奈菜乃はほとんど確信していた。だから彼を追い詰めるなら、精神的な面を揺するしかないと思った。それを恐る恐る伝えると、二人は少し考え込んだ。

「それなら平良くんが一番大切にしているものを壊したら?」

 それを言ったのは珠姫だった。陸はあいつの大切なものなんて知らないと匙を投げたが、奈菜乃にはもしかしてと思うものがあった。確信があるわけではない。彼らについて知っていることは何もなかった。ただ、そのときだけ繚の雰囲気が変わるような気がしていた。自分の勘が外れているならそれでも良い。こんなことはもともと蛇足なのだ。

「あの、確証はないんだけど……」

 奈菜乃は自分の考えを伝えながら、ふと、本当にこれで良いのか不安になった。彼の性癖を暴露できれば目的は達成されるのだ。彼を傷つける必要は本当にあるのかと。
 だが、イイ子ちゃんのふりをして、と思われるような気がして言えなかった。実際のところ、彼が不幸になったとしても同情する気持ちはこれっぽっちも起きないとわかっていた。それどころか笑って見ていられる気さえする。そんな自分の中でとぐろを巻いている暗い感情と目が合って、後ろめたさに目を逸らした。
 目を伏せ、知らないふりをしたのはこれで何度目だろう。少しだけ胸が痛んだのを、気がつかないふりをした。



 準備と仕込みを終えて、ついに明日、計画が動く日となった。
 奈菜乃は一つ、気にしていることがあった。時間は午後八時。早い時間ではないが、外出は可能だ。携帯電話を取り出すと、少し考えた後、邦緒へと電話をかけたのだった。



「ごめん、夜中に呼び出して」
「いいって。気にすんなよ」

 二人は校舎の玄関前に並んで立っていた。夜の学校は、不気味に静かでまるで知らない場所のようだった。
 奈菜乃は真っ暗な校舎を背にして、夜の空気をゆっくりと吸い込んで吐き出す。

「言うか言わないか、迷ったんだ。知らない方がいいのかもしれない。けど、どうせわかることなら先に知ってた方がいいんじゃないかって思って」
「何の話?」
「私たち、本当は平良くんが夜に何をしてるか知ってるの」

 邦緒は、少し強張った表情で、小さく声を漏らした。

「自分でも突拍子のないこと言ってるって思う。けど、本当の話。平良くん、殺人鬼なんだよ」

 邦緒は目を見開く。震えるように口を動かしたが、言葉が漏れることはなかった。

「人殺しだよ。しかもかなり質が悪い。ゲームをするみたいに楽しんでる」
「……う、嘘だろ」
「嘘じゃない。明日の放課後、平良くんと話をするつもり。そこで決着をつけようと思ってる」
「決着って」
「それは言えないよ。布目路くんが平良くんに伝えるかもしれないもの。でも、布目路くんには協力してもらったのに、明日ようやく真実を知ったなんて申し訳ないから、だから」
「ほ、本当だとしても、なんで今更、なんでもっと早く、」
「ごめんね」

 ひどく狼狽する邦緒を前に、奈菜乃はそれだけ告げて俯いた。彼女の髪が前へ流れて表情を覆う。

「お、俺は、信じないぞ。たしかにそりゃ、性格も目つきもキツいけどさ、人殺しなんて、そんなの、信じられるわけないだろ。嘘ついて俺が慌てふためくのを見て遊んでんだろ。なあ。もしくは俺とりょーちゃんの仲を嫉妬して仲違いさせようって魂胆だな? その手には乗らねーよ。だいたいんなこと言われたってさあ、俺は、この目で見るか、りょーちゃんから直接聞くかじゃないと、信じないからな」

 邦緒は見えない何かに縋るように言葉を繋ぎ、口調とは裏腹にその顔色はどんどん悪くなっていく。奈菜乃はそんな彼を見て、物憂げな視線を寄こした。

「信じるかどうかは布目路くん次第だよ。私は本当のことを伝えただけだから」



 そうして翌日となった。三人は緊張に顔を強張らせながらも、絶対に大丈夫だ、と繰り返した。言葉の中身はからっぽだったけれども、何もしないよりはましだった。
 計画では、初めに小型のカメラと録音機を仕込んだ奈菜乃が繚を学校の外へ呼び出すことになっていた。ここで彼が乗ってこなければ計画そのものが破綻してしまう。奈菜乃が交渉下手というのは先日はっきりしたことだが、今回ばかりは他の人が手助けするわけにはいかなかった。
 その日の放課後、繚は校庭の隅で花壇に水をやっていた。奈菜乃は深呼吸をしてから、強く手のひらを握りしめる。心の中で気合を入れて、拳から力を抜く。ゆっくりと息を吐いて、そうして彼のもとへと歩み寄った。

「平良くん、話があるんだけど」
「やあ、きみから話しかけてくるなんて珍しいね」

 繚はじょうろを手にしたまま奈菜乃に向き直った。そういえば、正面からきちんと対峙するのは久しぶりかもしれない。じょうろはちょうど水がなくなったようで、行き場のない水滴がぱたりぱたりと土を濡らしている。

「そろそろ決着をつけたいの。けど、学校じゃ話しにくいから、場所を移さない?」

 繚は静かに奈菜乃を見つめていた。黒々とした瞳や髪に日光が反射している。彼は品定めするかのように、彼女の髪先からローファーまでじっとりと眺めて、それから口を開いた。

「いいよ。ちょうど俺もゆっくり話がしたいと思ってたんだ。片付けるから、少し待ってて」

 まずは第一関門を突破した。心の中で小さく息をつく。繚がじょうろや栄養剤を仕舞い、手を洗うのを見ながら、次の行動を確認していた。次は、通りの外れにあるもう使われていない会館に繚を連れ出す手はずになっている。そこもあらかじめ調べていて、カメラを仕込んである。

 繚が片付けを終えたので、二人は校門を出て並んで歩いた。ときたま彼が他愛のない話を振ってきたが、奈菜乃は総じて相手にしなかった。それでも彼は楽しそうに笑ったのだった。

「そうだ」

 足を止めたのは繚だ。

「寄らなきゃいけないところがあったんだ。先にそっちに行ってからでもいい?」
「今日じゃなきゃだめなの?」
「今日行きますって約束しちゃったんだよ。忘れ物取りに行くのと、授業の準備を手伝うって」

 授業と言われると奈菜乃も弱く、あまり強く拒否すると怪しまれそうでどうしたものかと思案したが、繚が長くかからないから、どうしても、と懇願するので、仕方なく先に彼の用事を済ませることにした。彼が向かった先は、町営の屋内プールだった。有中高校にはプール設備がないので、授業で利用する場所である。そのため、頻繁に学生の忘れものが報告されている。
 玄関で靴を履き替え、受付を通り過ぎようとしたときだった。

「あらあ、繚くん、久しぶりね。元気だった?」

 窓口から親しげに声をかけてきたのは四十代ほどの女性だ。繚もにこやかに挨拶をする。

「お久しぶりです。おかげさまで元気ですよ。そういえばこの間松江さんから教えていただいたストレッチなんですけど」
「ああ、あれどうだった? 肩凝りに良く効くでしょ?」

 そのまま雑談に突入しそうだったので、奈菜乃は不満げに繚を小突いた。すると繚も思い出したように奈菜乃を見て苦笑いする。

「ええ、とっても楽になりました。ところで、生徒の忘れ物はありますか」
「ああ、忘れ物ね。今持ってくるわね」
「それじゃあその間にコースロープを張っておきますね」
「あらあ、いつも悪いわね。こっちは全然人手がないから助かるのよ。今お客さんがいないからちょうどいいわ。一人じゃ大変よ。ちょっと待ってもらえたら私も行くんだけど」
「いえ、気にしないでください。ごめん、与成さん、手伝ってもらってもいい?」

 初めから手伝わせるつもりだったのだろうか。嫌だとは言えずに、奈菜乃は頷いた。松江と呼ばれた女性は、奈菜乃に目線を移すと興味津津に覗きこむ。

「あなたも悪いわねえ。ありがとね。そういえば気になってたんだけど、その子もしかして繚くんの彼女?」
「まさか。そんなのじゃありませんよ」

 そう言って繚は爽やかに笑った。



 更衣室を抜けると、そこには誰もいない五十メートルプールが悠々と広がっていた。水は淡い青色をしていて、ゆったりと波を立てている。水底は遠くなったり近くなったり絶えずゆらめいていて、見つめていると気が遠くなりそうだった。窓からは傾き始めた日の光が差し込み、プールの青色と混ざり合って非現実的な空間をつくりだしている。
 繚は隅に折り畳んで寄せてあったコースロープに近づくと、その先端を持った。

「与成さん、そっち持って」

 奈菜乃は指示に従って先端の金具の部分を持ちあげた。繚はコースロープを引きずりながら奥へと歩いていく。そうしてそれを一直線に開くと、水上に投げ込んで金具をひっかけて取り付けた。

「最初から手伝わせる気だったんでしょ」
「まあね」

 いつの間にか彼のペースに乗せられている気がして、焦りが湧き上がる。大丈夫と心の中で繰り返して落ちつこうとした。

「受付の人と仲良いんだ」
「たまにこうやって来るんだけど顔覚えてもらってさ」

 改めて、彼の徹底した印象管理を思い知らされた気がした。このプール以外でも手伝いに回っているのだろう。学内だけではなく学外でも評判が良いに違いない。
 そうこうしているうちに四本のコースロープを取り付け終わった。カラフルなプラスチックはぷかぷかと浮き沈みして、水面に鮮やかな色を反射させている。

「与成さん、手伝ってくれてありがとう」

 繚はプールの縁にいる奈菜乃の隣にやってきて、たった今できあがった五つのコースを眺めた。
 次の瞬間、奈菜乃は突然背中に強い衝撃を受けて、よろめいた。このままではまずいとわかったが、どうすることもできなくて、プールへと落ちてしまった。水が全身を覆う。驚いて息を吸ってしまい、酸素の代わりに大量の水が流れ込んだ。一瞬パニックになったが、幸い深さはなく、すぐに足が底について立ち上がることができた。
 しかしたくさん水を飲んでしまい、咳き込んだ。うまく空気が吸えずに涙が出る。息切れも治まらないまま、なんとなく繚の方に視線をやると、彼は楽しそうに口元を歪めて彼女を見下ろしていた。
 即座に、彼に突き落とされたのだと理解した。そうしてしまった、と思った。録音機も小型カメラも防水加工されているわけではない。
 繚は「大丈夫?」手を差し出してきたので、奈菜乃は思い切り睨みつけてその手を跳ねのけた。呼吸は未だ整わず、一人でプールから出られるだけの落ち着きは取り戻していない。すると彼は、自分の制服が濡れるのも厭わずに水中の彼女の手をつかんで引っ張り上げたのだった。成されるがまま水から上がり、奈菜乃はプールサイドの固い床にへたりと座り込む。水が滴って彼女の周りに水たまりを作った。

「松江さーん! すみません、着替えありませんか」

 繚は大声で先ほどの女性を呼びながら受付へと向かった。それから少し後に、松江が慌てた様子で駆け寄ってきた。手には大きなタオルを持っている。

「プールに落ちちゃったんだって!? 大変、ジャージを貸すからすぐに着替えなさい!」

 そう言ってタオルで奈菜乃の頭を大雑把に拭いて、彼女の手を引いて更衣室へと駆けて行った。松江の行動力は圧倒的で、口を開く隙さえ与えなかった。


 二人が大慌てで更衣室へ姿を消した後、すぐに繚は入口に置いてあった奈菜乃のバッグを引っ掴み、躊躇なくひっくり返した。教科書、筆箱、携帯電話、ポーチなどが転がり落ちる。彼はそれら一つ一つを中身まで丁寧に確認し、しまいにはバッグのポケットまで全て調べた。それから目当てのものが見つかったのか、くすりと笑う。
 彼の手には黒くて小さな機械が三種類あった。それは、奈菜乃が隠し持っていた録音機と小型カメラ、そして盗聴器だった。繚はそれら全てを水につけて故障させてからゴミ箱へ投げ込み、彼女の携帯電話を忘れ物コーナーの一番奥に仕舞い込んだ。そうして彼女のバッグを持ったまま、出入り口へ行き靴を履いて何食わぬ顔で二人が出てくるのを待っていた。
 女子更衣室からはドライヤーの音が漏れてくる。松江も出てこないところを見ると、世話好きな彼女に髪を乾かされているのだろう。
 それから五分ほど待っただろうか。疲れた様子の奈菜乃と、対照的に満面の笑みを浮かべている松江が更衣室から出てきた。奈菜乃は半袖シャツと紺色のジャージパンツを着ている。

「与成さん、荷物こっち」

 繚の呼びかけに気がついた奈菜乃は、さっと顔色を変えた。持っていた髪留めをポケットに突っ込み、慌てて靴を履いて繚からバッグをひったくろうと手を伸ばした。しかし、その手は繚につかまれてしまう。奈菜乃は青い顔で繚を見た。

「ごめん、松江さん、着替えありがとう。忘れ物は明日取りにくるよ」

 彼はそれだけ告げると、奈菜乃の腕をほとんど無理やり引っ張って、一目散に走り出す。後ろでは松江が「あらあ、若いわねえ」と和やかに笑っていた。




 往来を避けて裏道へ入り、建物の間を縫うように走る。見たことのない薄汚い風景が飛ぶように過ぎていく。右に曲がったかと思えば左に曲がり、裏道の更に細い道を通り、奈菜乃には今どこにいるのかまったくわからなくなった。
 ようやく彼が足を止めたのは、陰気な影に覆われた廃ビルの前だった。正面の扉は開いている。彼はそのまま建物の中へ入り、二階へと駆け上がり、適当な部屋に入ると、そこでようやく奈菜乃の手を離した。
 この部屋はおそらく会議室だったのだろう。使われなくなったテーブルやイスが無造作に放置され、埃を被っていた。床には煙草の吸殻や汚い空き缶が転がっている。息苦しいほどにカビと埃の臭いが充満していた。

「それで、与成さん。話って何かな」

 彼は廃墟の中で、澄まし顔で笑う。その飄々とした態度はどこか不気味で圧迫感があった。
 奈菜乃は何も言わずに彼を睨みつける。

「話があるって言ったのはきみじゃないか。それともこんなところじゃ話せない? どうして?」
「廃ビルに連れ込まれたら誰だって警戒するでしょうが」
「その辺の感覚はしっかりしていて安心したよ。なんてことない、人目のない場所の方がいいんだろうなっていう俺の気遣いさ」

 彼はそう言うものの、奈菜乃のためにこの廃ビルまで来たわけではないことは明らかだった。
 奈菜乃にしてみたら、今の状況はかなり分が悪い。計画はほとんど彼に見破られ、この廃ビルからは逃げ出せそうにない。しかし、まだ全てが崩れたわけではなかった。今は珠姫と陸を信じるしかない。

「私はやっぱりあなたを何とかしたい」
「それ、きみのわけがわからないプライドのために俺の殺しを止めさせたいって話? それとも社会復帰できないほどに痛めつけて不幸のどん底に突き落としたいって話?」
「あなたってほんとにいい性格してるよね。ところで、平良くんに聞きたいことがあるんだけど」
「ふうん、まあいいけど。何かな」
「平良くんはどうして人を殺すの」
「そんな馬鹿げたことを聞かれるとは思わなかったなあ。与成さんは自分がなぜ空気を吸うのか考えたことがある?」

 奈菜乃は言葉に詰まった。彼の異常さを改めて突き付けられたからだ。しかし、そんな答えで納得できるわけがなかった。

「ここまで巻き込んでおいてそうやってはぐらかすの。私にも少しくらいあなたのこと知る権利がある」
「俺に何を求めてるのかは知らないけどさ。まあ強いて言葉にするなら、楽しいからに決まってるだろ」
「どうして」
「どうしてって言われても。興奮するんだよね、そいつの命を握ってるってことに。頭ん中がふわふわしてさあ、気持ちいいんだ。あれ以上の快感なんてないよ。もしかしたら与成さんならわかるかもねえ」

 最後の一言が意味深で、訝しく思ったが掘り下げている場合ではなかった。
 彼は自身のバッグからナイフを取り出し、奈菜乃と一歩距離を詰める。その刀身は鈍く光っていた。

「それで、俺を何とかするって? どうやって?」
「……そのナイフでこれまで何人殺してきたの」
「今ではいちいち数えてないよ。俺、こんなどうでもいい話にはそろそろ飽きてきたんだけど」

 繚はもう一歩、奈菜乃に近づいた。奈菜乃は後ずさりするが、すぐに腰にテーブルがぶつかってしまった。彼はゆっくりと距離を詰めてきて、もう一歩で触れるというところで立ち止まる。繚と距離を取ろうと思っても、視線を外した瞬間に襲われるような気がして動けなかった。

「……おそらく、与成さん自身が持っていた盗聴器類は壊した。きみの鞄に隠していたそれらも捨てた。場所は俺が適当に選んだ廃屋、小細工をしておく時間はない」

 奈菜乃は忌々しげに繚を睨む。とにかく距離を取りたくて、出口の方向へ身体をずらしたときだった。繚は素早く一歩を踏み出して奈菜乃の右腕をつかむと、あっという間にテーブルの上に引き倒した。
 焦りや恐怖を見せれば彼が喜ぶことはわかっていたので、奈菜乃は努めて冷静であろうとした。しかし、身の内から迫る本能的な感情を覆い隠せるほどに経験豊富ではなかったのだ。結果、彼は満足げに目を細め、にんまりと口角を上げる。

「ねえ、他の人には言わないでって忠告したのに」

 繚はナイフを持った手で愛おしげに奈菜乃の頬を撫ぜた。彼が手を動かすたびに刃が顔に触れる。それはのけぞりたくなるほど冷たかった。

「こんなあからさまな罠に乗ったのは、俺にとってもチャンスだったからだ。きみと二人きりになれることなんてもうないと思ってた。それにきみたちの挑戦を叩きのめした上できみを殺してあげることに意味があるのさ」

 部屋は薄暗く、覆い被さる彼の表情は影になってはっきりとは見えない。しかしその声は弾んでいて、心底楽しげだった。
 これから何をされるのか考えるとたまらなく恐ろしくなって、拘束を解こうと自由な左手で暴れると、彼は鬱陶しげに舌打ちをした。そしてナイフをくるりと逆手に持ち替えると、彼女の手のひらを狙ってそれを思い切り振り下ろした。
 瞬間、全身を走った痛みに悲鳴が上がる。ナイフは手のひらを貫通してテーブルに刺さっていた。繚はわずかに笑い声を漏らし、彼女の痛みを堪える声と荒い息遣いにうっとりと聴き入っている。テーブルの上にはじわじわと血溜まりが広がった。
 繚はポケットから別のナイフを取り出すと、くるくると回して遊び始めた。

「抵抗するからだよ。さあ次はどこがいい? 脚にしようか、腕にしようか」

 右手は焼けるように痛む。血の感触が不愉快だ。心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。
 どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう、と、漠然と全てに嫌気が差した。全て知らないふりをして、何もかも投げ捨てて逃げ出してしまいたかった。
 思わず涙が出た。あのとき逃げ出してしまえばよかったのに。そう後悔しかけて、自分が恥ずかしくなった。それは珠姫と陸を見捨ててしまえばよかったと言っているのと同じだ。損得関係なく、自分のためにこんなことにまで力を貸してくれる友達を、裏切ることはできない。
 自分たちの目的と、やるべきことを思い出す。手のひらは相変わらず痛んだが、心がすっと落ち着いたような気がした。
 今ならもう十分のはずだ。彼の口から自身が快楽殺人鬼であると認めさせた。実際にナイフで人を襲っている。彼に言い逃れの余地はない。

「楽しんでる場合じゃ、ないよ。……盗聴器、私しか持ってないと思った?」


(2014/8/10)


 

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