繚が有中町に来たときには、すでに邦緒はこの町の住人だった。
ちょうど彼は繚の隣の席で、顔を合わすや否や、「めぐるって変わった名前だな」と月並みな感想を述べて、「それじゃあお前、りょーちゃんな」と勝手にあだ名をつけた。猫っかぶりを決め込んでいる繚は、内心面倒くさがりながらも曖昧に笑って、これからよろしく、と社交辞令を口にした。
この出会いが、後に彼の生き方に大きな変化をもたらすことになるとは、このときには思いもよらないものであった。
邦緒は、いつも人の輪の中にいた。男女問わず友人は多いのに、隣の席のよしみだと言って何かと繚にかまうのだ。一緒にご飯を食べようだとか、あそこに遊びに行こうだとか。対する繚は邦緒にこれっぽっちも興味関心がなかったので、本心では煩わしさを感じつつ、しかし持ち前の演技力で一切それを表に出すことはなかった。
ところで、繚はクラスメイトに対して気軽に話せるが決して懐に入り込ませない距離を取っている。その線引きを踏みつけて入りこんでくる人間は、大抵が天然のバカか彼を利用するつもりかのどちらかであるが、どちらにしても繚にとっては恰好の獲物だった。ある程度仲良くなったところで殺人鬼の本性を覗かせてやれば皆一様に言葉を失い絶望に震えるのだ。
みっともない命乞いも、信じてたのにと泣き叫ぶ声も、身体の芯まで響いて腰が砕けてしまいそうになる。ぞくりと這い寄る悦びに、頭からつま先まで支配されるその瞬間が彼は一等好きだった。
だから、繚にとって邦緒のような人間はむしろ好都合であった。作り物の笑顔と少年らしさを張り付けて、彼の愉悦を達成するためだけに、邦緒との距離を縮めていった。
邦緒が忘れ物をしたと嘆けばからかいながらも力を貸してやり、彼がクラス委員の仕事に追われているときには、言い合いをしながらも仕事を手伝い、週末には冗談を言って笑いながら町へと遊びに出かけた。
そうして邦緒と行動を共にするうちに、繚にもだんたんと彼の性格がわかってきた。彼はストレートに感情を表現し、騒がしく、嘘のつけない人間だった。そうして誰よりも純粋だった。
その底抜けた朗らかさに、苛立ちを感じなかったと言えば嘘になる。だが分け隔てなく笑う邦緒がどことなく眩しく映ったのも、また事実であった。
あるとき、邦緒に勉強を教えてくれと頼まれたことがあった。成績優秀な優等生のふりをしている繚は快くそれを引き受ける。さして時間はかからないだろうと勝手に決め込んで、その日の夜に軽い気持ちで彼の部屋を訪れた。
しかし、いざ教えてみると、繚は自分の考えの甘さを思い知ることとなった。邦緒は思っていた以上に勉強ができなかった。
数学で関数の問題について解き方を教えてやっても、きょとんとして首を傾げるだけである。もしやと思って基本中の基本である公式を指し示すと、ようやく意味がわかったと目を輝かせた。目を輝かせたが、今度はどの数字をあてはめて良いのかわからずに呻きだす始末である。
繚は頭痛を感じて頭を抱えた。邦緒の前で素が出たのは、このときが初めてだった。
「お前がこんなに馬鹿だとは思わなかった」
「うるさいバカ!
お願いだから見捨てないでください」
どことなく邦緒に捨て犬のイメージが重なり、繚はため息を一つ吐く。
「引き受けたんだから見捨てたりしないよ」
瞬間邦緒の顔が輝いた。彼が犬だったなら、今頃尻尾が左右に振り回されているはずだ。
こうして赤点常連問題児邦緒の猛特訓が始まった。繚の教え方は的確かつ丁寧でわかりやすかったが、スパルタだった。一問間違えば解説の後に自力で類題を三題解かせ、全問正解するまで進ませなかった。うつらうつらし始めると、すぐに教科書で引っ叩かれて起こされる。邦緒はその頭で何度良い音を響かせたかわからないくらいだった。
そうして勉強を進めているうちに、気がつけば十二時を回るころになっていた。部屋備え付けのデジタル時計が机の隅にひっそりと佇んでいる。邦緒はしかめっ面で教科書を睨んでいた。そろそろ部屋に戻るか、と繚が思案したときだった。時刻が変わる。
そこに映し出されたのは、29:67の数字だった。繚は目を見開いた。画面はすぐに00:00へと戻る。何事もなかったように、0を四つ映し続ける。
「ちょっと、りょーちゃんってば。目開けたまま寝ちゃった?」
「いや、悪い。何?」
「ここわかんないんだけど」
「……ああ、今日はもう遅いし、明日にするか」
その言葉に、明日も教えてくれるんだ、と邦緒は喜んだ。当の繚は、さっき見た数字が頭から離れずに黙りこんだ。左側は罪を犯した数だ。29という数は、現在の繚よりも大きい。
繚の心に、初めに生まれたのは懐疑心だった。
今見た数字がいまいち信じられない。裏表のない純真なバカにしか見えないのに。
その次に生まれたのは純然たる興味だった。
人を騙せるような人間には見えないが、自分のようにすべて演技だというのだろうか。この笑顔の奥に、一体どんな化物が棲んでいるというのだろう。
そんな繚の気持ちを知る由もなく、邦緒はのんきに机の上を片付けている。
「りょーちゃんありがとう!
なんか頭良くなった気がする」
「寝て忘れるなよ」
「任せとけ」
そうして繚は、その胸で密やかにわだかまりを温めながら邦緒の部屋を後にした。
それ以降、繚は邦緒の行動に注意を払うようになった。しかし、どこからどう見ても、邦緒は演技で暮らしているようにも嘘をついているようにも見えなかった。
それからしばらく経った放課後のことだった。繚がいつものように花壇に水をやっていると、花壇の隅っこに一株しおれた花を見つけた。周りと比べて成長が悪く、すっかり萎びてその色を褪せさせていた。栄養剤でも与えてみようかと思い、繚はじょうろをしまって手を洗う。
近くのコンビニには、店長の趣味なのか小さな園芸コーナーが設けられている。
夕方だったので遠出する気にもなれず、例の園芸コーナーで用を足すことに決めた。
夕日は赤々と燃え、町中を照らし出している。コンビニに着くと、平日の夕方だが店内の客はまばらだった。ひとまず品物と客層を物色しながら歩いていると、店の一番奥に見知った顔があった。
邦緒だ。人目につきにくい場所に突っ立って、少し青褪めた顔で、じっと棚を見つめていた。彼の目線の先には消しゴムやボールペンといった文具が並んでいる。
繚は彼に声をかけるつもりはなかった。うるさくまとわりつかれるのが面倒だったからだ。そのまま気付かなかったふりをして、背を向けようとした、そのときだった。
邦緒はシャープペンシルの芯を手にとって眺めていた。そのまま、ごく自然な動きで、自分のポケットへ商品を突っ込んだ。そうして何食わぬ顔で歩き出す。店員も客も、誰も邦緒のことを気にしていない。彼は、始終機械のように無表情で、前だけを見ていた。
繚の足が自然と動く。大股で歩み寄り、未だにポケットに突っ込まれたままの手首をつかんだ。邦緒はびくりと肩を震わせ、初めて顔を動かした。自分の腕をつかんだ人物が誰かなのかわかると、その瞳には光が戻り、表情が引き攣る。
繚は彼の手に緩く収まっていたシャープペンシルの芯を取り上げると、無言でレジに持って行った。会計が終わり、未だに立ちすくんでいる邦緒の襟をつかんで、彼が転びそうになるのも周囲の怪訝な目も気にせずに、店を出た。
この間、繚は一切表情を取り繕おうとしなかった。
二人は、すぐ近くの公園のベンチに座っていた。日は沈み、夕暮れの残り香がわずかに残っている。辺りには誰もいない。子供たちは皆家に帰ってしまったのだろう。
「で?
何やってんの、お前。誰かに強要されてるわけじゃないよな」
邦緒は口を開かない。
「生活に困ってるわけでもないだろ」
冷たい風が二人の髪を揺らす。
「スリルを楽しんでいるのか」
彼はずっと無言だった。俯いて靴先だけをひたすら見つめている。穴が空くのではないかと心配になるほどだ。だんまりを決め込む邦緒に、これ以上何を言っても無駄かもしれないとため息を吐く。
「悪いとさえ思ってないのなら幸せなもんだな」
「違う……」
ここで初めて邦緒は口を動かした。この世の終わりとでも言いたげな、消え入りそうな声だった。
「駄目だって、わかってるんだ。悪いことだってわかってるんだけど、やめられないんだ。手が勝手に、動くんだ。やんなきゃいけないような気が、して。それで、それで何度も、何度も。だけど、笑えるほど誰にも気付かれなくて、」
誰かが止めてくれたの初めてだ、と微かな声で呟いた。
「なあ、俺を軽蔑するか。するよな」
邦緒はようやく顔を上げて、繚を見つめた。今にも逃げ出しそうな怯えた顔をしている。
何が彼を犯罪へと駆り立てたのかはわからないし、繚にとって個人の事情はどうでもいいことだった。ただ、大切なのは本当に邦緒が嘘をつけない人間なのかということだ。そうしてそれは、嘘で塗り固めた繚から見たら一目瞭然のことだった。学校での陽気な彼も、今ここで縮こまっている彼も、どちらも本当のものである。
「別に。好きにしたら良い。俺は気にしない」
邦緒は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。繚を見つめて、ばしばしとその瞳を瞬かせる。
「……縁、切られるかと思った」
「普通はそうだろうな。お前が何しようがお前の勝手だけど、忠告はしておく。お前さ、このまま続けてたら人間じゃなくなるよ」
「は、何それ。意味わかんね。哲学か何かかよ。……じゃあ、人間でいるためにはどうしたらいいの?」
「知るか」
「冷たっ。それじゃありょーちゃんは人間なの?」
「さあね」
繚はベンチの背もたれに寄りかかった。邦緒もそれにならって体重をベンチに預ける。背もたれがぎしりと音を立てた。辺りはもう暗く、空には星が瞬いている。
「……俺、お前が腹に怪物飼ってるような気がしたの。だからなんつーか、親近感?
それでお前に近づいたのよ。別に友情感じてたわけじゃねーの。最低だよな」
「俺にはどこが最低なのかわからないんだが。第一、間違っちゃいないしな」
邦緒は、ぽかんと阿呆の面をした。
「……怪物飼ってる?」
「少なくともお前の陳家な自欺よりは崇高で哲学のある怪物だ」
「は、そっちが素?」
「猫を被るのも楽じゃない」
邦緒は笑い出した。疲れた笑い声が、誰もいない公園に響く。
「なんだよそれ。あー、なんていうか、そうかあ。でもりょーちゃん、俺、人間でいたいよ」
「努力することだな」
「うん、そうする、がんばる」
冷たい空気をゆっくりと肺に流し込むと、内臓も肌も溶けだして夜とひとつになるような気がした。空気はしんと澄んでいて、星がやけに眩しく瞬く。二人は無言でベンチに腰掛けて、やわらかい暗闇の中で息をしていた。
その夜以降も、邦緒は相変わらず陽気に繚に話かけてきて、二人は何かと行動を共にした。はたから見たら以前と同じだっただろう。しかし、実際はふたつ変わったことがある。ひとつめは、邦緒が"努力"を始めたこと。ふたつめは、繚が邦緒の前では猫を被らなくなったことだ。
前者は、邦緒は理由のわからない強迫観念と良心がぶつかり合うのが苦しくて、逃げ出してしまおうかと思うこともあった。しかし、ここで自分に負けたら繚にせせら笑われるような気がして、それがなんだか悔しくて、まずは向き合うことから始めた。ゆっくりでも自分のペースで、今の自分を変えようと努力するようになったのだった。
後者に関しては、仮面を脱げば、繚は実に奇妙な人間だった。彼は何でもそつなくこなし、何にも興味がなかった。その熱のない表情を見ていると、彼だけ別の次元に立っていて、全く違う方向を向いているような気がしてくる。彼の心はどこにも所在がなく、そもそも心があるのかさえ疑わしくて、一緒にいる邦緒の方が不安になることもあった。加えて繚は猫を被っているときに比べたらぞっとするほど冷淡で、ついていけずに離れようと考えたこともあった。しかし、結局邦緒を彼に繋ぎとめたのは、自分の罪を受け入れてくれたという安堵だった。
そうこうしてつきあいを続けていくうちに、鈍感な邦緒でも、繚が自分と一緒にいるときにはたまに人間らしい表情をすることに気がついた。それでなんだか考え込んでいた自分がばからしくなって、難しいことを考えるのはやめたのだった。
繚は冷淡で毒舌で意地の悪い男だったが、邦緒は彼のことが嫌いではなかった。いじり倒され遊ばれるようなことは日常茶飯事だったが、一緒にいたら楽しいし、彼の頭脳は非常に心強いし、なにより自分のことを拒絶しなかった。一緒にいる理由なんてこれだけでよかった。
そのうちだんだんと息が合うようになってきて、どんどん毎日が楽しくなってきて、一緒にいるのが当たり前になった。繚も悪戯っぽく笑うことが増えた。それが自分だけに見せる表情だと気がついて、なぜだか少し誇らしくなった。
気がついたときにはもう友達だった。友情を感じていないと言ったあのときは、遠い昔のように霞がかっている。
そうして奇妙なバランスを保ったまま、日々が過ぎていった。しかし、彼らがいる場所は平穏な教室などではなく、高く床の見えない平均台に座り込んでいるだけであるとは、気がつきやしなかった。あるいは、気がつかないふりをしていたのだ。
(2014/8/2)