十二.月曜日:0279






 

 

 寮生活をしている以上、繚の行動を把握するためには男子の協力が必要不可欠だった。協力者の条件として、繚の行動を知ろうとしてもおかしくない程度に仲が良いことが挙げられるが、陸と珠姫には思い当たるような生徒がおらず、頭を悩ませていた。繚は誰にでも親切だったが、改めて仲の良い人について考えてみると、それらしい人物はいないのだ。
 二人が悩んでいる様子を見て、奈菜乃は目を瞬かせた。

「平良くんと仲のいい人なら布目路くんじゃないの?」

 布目路邦緒(ゆめみちくにお)とは、二年生のクラス委員で、気さくで明るい性格の男子生徒だった。彼の席は繚と奈菜乃の間で、授業中にはよく居眠りをしている姿を見かける。

「布目路? あいつが一方的に平良に懐いてるだけだろ」
「一方的に? 平良くんも布目路くんといると楽しそうだよね」
「楽しそう? 他の人と同じじゃないの?」

 三人は顔を見合わせた。邦緒と繚が何かとつるんでいるのは皆が知っていることだったが、人懐っこい邦緒が一方的につきまとっているのだと大抵の人が思っていた。しかし奈菜乃はそうではないと断言する。彼女の自信に気押されて、また彼のお人好しな人柄は都合が良かったので、協力者として邦緒に白羽の矢が立ったのだった。



 月曜日の放課後、繚が職員室へ出かけた隙を見計らって、奈菜乃と珠姫は話があると邦緒を屋上へ呼び出した。陸は説得は苦手だと言うので、人が入らないように見張る役目を請け負った。彼女は奈菜乃と珠姫、そして邦緒が屋上へ行ったことを確認すると、ジュースのストローをかじりながら階段に座り込んだ。
 外はどんよりとした曇りだった。屋上にはやはり他に人影はなく、鉄製の柵の傍で三人は向き合っていた。

「急に呼び出してごめんね」
「うんにゃ、いつでも呼び出してよ。てかさ、このシチュエーションって、も、もしかしてこ、こくはく!?」
「期待外れで申し訳ないんだけどね、平良くんのことなの」
「あ、なんだ、そうなのかよ。何、じゃあ俺は伝書鳩になりゃいいわけ? それともセッティング担当? でもね、あいつラブレターとか全然見てないよ。やっぱり呼び出す方がいいんじゃないかと思うな」
「ちょっと、一回告白から離れなよ」

 珠姫が呆れ顔でそう言うと、邦緒はきょとんとした顔で違うの?と目を瞬かせる。次に切り出したのは奈菜乃だ。

「布目路くんに協力して欲しいの」
「協力?」
「うん、あの、平良くんの見張りをお願いしたくて」

 先ほどまで身振り手振りを交えてはつらつと話していた邦緒だが、その言葉を聞いた途端にぴたりと制止して眉をしかめた。一言も喋らずにじっと奈菜乃を見つめている。普段笑顔が絶えないぶん、太陽が欠けるように不気味だった。
 珠姫は慌てて奈菜乃の袖をひっぱって目配せすると、彼女の言葉を引き継いだ。

「ごめんね布目路くん、突然でびっくりしちゃったでしょ。誤解しないで欲しいんだ。平良くんと一番仲が良いのって布目路くんでしょう?」
「……まあ」
「気付いてると思うんだけど、最近、平良くんの様子がおかしいと思わない?」
「……別に、いつもと同じだよ。気のせいじゃないのか」

 邦緒は腕を組んで柵にもたれかかる。ひどい仏頂面をしている。

「ううん、だってななちゃんが見たんだよ。夜中にこっそり学校から出ていく平良くんを。本当に、何も知らないの?」
「仮に何かあったとしても、何で珠姫さんと奈菜乃さんが気にするんだよ。どうせ優等生のゴシップ見たさだろ」
「違うよ。心配してるの」

 珠姫は、真っ直ぐに邦緒を見据えた。

「平良くんって完璧すぎて見てて不安になるよ。悩んでることとか誰にも言えないことがあるんじゃないのかな。そのせいで危ない勧誘を受けたり、妙な事件に巻き込まれたりしちゃうんじゃないかって、心配なの。布目路くんだってそうでしょ?」

 珠姫の語りに、密かに奈菜乃は感動していた。次から次へと出てくる言葉の数々はもちろんのこと、後ずさりしてしまいそうなほどの真剣な眼差しに、珠姫も珠姫なりに彼のことをきちんと見ていたのだなと、心が燃えるような気持ちだった。
 邦緒も同じように感じたのか、柵にもたれかかるのをやめて改めて珠姫に向き直る。そうして頑なに寄せていた眉を少しだけ和らげて、視線を下方へとずらした。

「そりゃ、俺だって……。けど……」
「平良くんが、もし危ないことをしていたとして、布目路くんはそれをそのまま放っておいていいの? 悪いことは悪いって言って正してあげるのが友達じゃないの?」

 邦緒は黙り込んでしまった。思いつめた顔をして、コンクリートを見つめている。

「夜に寮を抜け出していたのは本当なの。本人に聞いたって答えてくれるわけないだろうから、布目路くんが平良くんを見ていてくれないかな。一人で対処できたらいいけど、きっと難しいと思う。私たちも力になるよ。だから、平良くんが外出するようなことだとか不審なところがあったら些細なことでも教えて欲しいの。もちろん私たちだって気をつけるけど、寮の中っていうと限界があるから」

 邦緒はしばらく無言で、険しい表情のまま視線を泳がせていた。しかし、珠姫の「平良くんを助けられるの、布目路くんだけだよ」という追い打ちを受けて、ようやく彼は頷いたのだった。
 その後、邦緒には、繚の夜間の外出の有無を伝えること、寮生活で不審な動きに気を配ること、一人で行動しないで必ず連絡を入れること、繚に気付かれないように十分注意することなどを約束させて、お互いに連絡先を交換した。
 屋上を去る邦緒の背は、どこかくたびれていて、どんよりと曇る空を映しているかのようだった。
 二人きりになって、珠姫は大きく息を吐く。

「ああ、ひやっとした。ななちゃん直球なんだもん」
「ご、ごめん」
「わかりやすい話し方だけど、交渉には向かないね」

 珠姫がお茶目っぽくウインクするので、奈菜乃はほっとした。怒ったりうんざりしたりするのではないかと不安だったのだ。珠姫の気配りに気がついて、またしても感服せざるを得なかった。

「そういえば珠姫ちゃん、平良くんのことあんな風に思ってたんだ。感動しちゃった」
「まさか。適当に話を作っただけだよ」

 珠姫はあっさりとそう告げて悪びれもせずに笑う。相変わらずきらきらとかわいらしい笑顔だったが、奈菜乃は何を言えばいいのかわからなくなって、ただその笑顔を見つめただけだった。



 それから数日間は計画の準備に奔走したが、特に陸の行動力の高さには舌を巻いた。入手困難と思われたものも手配が難しそうなものもあっという間に用意してしまうのだ。彼女のおかげでぐんと準備が進んだ。奈菜乃がそれを褒めると、陸は全然そんなことはないと笑う。曰く、「やろうと思えば案外できるもんだよ」と。
 珠姫は、毎晩邦緒とメールのやりとりをしていた。しかし、有益な情報を得られたとは言い難い。
 邦緒の部屋は階段のすぐそばで、人の往来を把握しやすい位置にある。毎晩少しだけ扉を開けて様子を伺っているが、夜に繚が階段を下りたことはないと言う。
 するとやはり気がかりなのは、あの時計の数値だった。殺人は右の数字が80増えた。99を超えないために、19以下の数値のときでなければ彼は行動しないだろう。奈菜乃たちの計画にもこの数値は大きく関係してくるので、把握しなければならないものだった。
 奈菜乃にとって、男子の協力者を得る最大の目的はこの部分だった。自分たちが彼の時計の数値を確認するのはどう考えても無理だ。
 しかし奈菜乃は誰にも時計の秘密について話していない。直感的に言わない方が良いと思ったのだ。だから、内緒で時計の数値を確認してもらわなければならなかった。



 ある日の放課後、みんながそれぞれの部活で散り散りになっているときのことだ。相変わらず部活に入っていない奈菜乃は、こっそりと体育館にいる邦緒に会いに行った。ちょうど休憩中のようで、彼は奈菜乃の姿を見つけると少しだけ警戒しながらも声をかけてきた。

「奈菜乃さんが来るなんて珍しいね。どうしたの?」

 彼は剣道部で、紺の袴を履いて黒い防具を身につけていた。普段の能天気な雰囲気とは打って変わって、別人のように凛々しい。

「部活中にごめんね。時間、大丈夫?」
「あと十分は平気」

 奈菜乃は人目が気になったので、邦緒を連れて体育館の外まで出た。廊下には電気がついておらず、ひんやりと暗く冷たかった。

「布目路くんって、夜中まで平良くんの部屋にいることある?」
「そういやほとんどないな。そもそもあいつ、人を部屋に入れたがらないし」
「お願いがあるんだ。ちょうど日付が変わるとき、平良くんの部屋の時計を見て欲しいの」
「ええ、時計? 何で?」
「意味わかんないのはわかってる。けど布目路くん以外にお願いできる人いないんだもの」

 邦緒はぎゅっとしかめっ面をした。剣道着のおかげで一歩下がりたくなる迫力がある。

「時計を見る理由は教えてもらえないの?」
「今は、まだ」

 まだと答えたものの、今後彼に時計の秘密を教えるかどうかはわからなかった。騙しているようで居心地が悪くなったが、何を今更、と思い直した。いちいち後ろめたさを感じていたらきりがない。

「けど、すごく大切なことなの。これがわかれば平良くんをなんとかできるかもしれない。それに布目路くんだって知りたいでしょ、平良くんの秘密」

 彼は相変わらず眉間にしわを寄せて、険しい顔をしていた。奈菜乃は縋るように見つめる。しばらくの無言の後、邦緒は囁くように呟いた。

「あいつを助けることに繋がると思う?」

 それは珠姫が邦緒を計画に引き入れるために何の根拠もなく話した言葉だ。むしろ助けて欲しいのはこっちのほうだなどと思いつつも、奈菜乃は「可能性はあると思う」と卑怯な肯定をする。彼は口をへの字に曲げたままだったが、小さく頷いた。

「わかった。やってみる。ただ、期待はすんなよ」



 その日の夜、日付が変わる十分ほど前のことだ。邦緒は英語の宿題を抱えて繚の部屋の前に来ていた。ノックをして、りょーちゃん、と名前を呼ぶが、反応はない。居留守だろうと確信に近い推測を抱いて、二度三度、しつこくドアを叩いて名前を呼んだ。すると何度目かのノックでドアが開き、ジャージ姿の繚が、いかにもめんどくさそうに顔を覗かせる。

「何の用」
「明日の宿題、当てられてるのにやるの忘れててさあ」
「知るか。自業自得だろ。おやすみ」

 彼はそれだけ告げてすぐさま扉を閉めようとしたので、邦緒は素早く扉をつかんでそれを阻止した。

「聞くだけ聞いてよお願い! それが一つだけ解けないとこがあって……ちょっと、そんなゴミを見るような目で見られたら泣いちゃうから!」
「うるさいんだよ。消灯時間だって過ぎてんだぞ」
「わかった、わかった。静かにするから。すぐ帰るから、一つだけ教えてくれない?」

 繚は嫌そうな顔をして、見せつけるようにため息を吐くと、「俺も眠いんだから少しだけだぞ」と邦緒を迎え入れた。
 彼の部屋は殺風景だった。邦緒の部屋と同じ造りのはずなのに、よそよそしく冷たい印象を受ける。備え付けの家具は一ミリもずれなく佇み、本棚には教科書と聞いたことのないタイトルの新書が綺麗に並んでいる。床も机もベッドもきちんと掃除してあって、邦緒は自分の部屋の惨状を思い出して舌を巻いた。モデルハウスのように整った部屋は、人が住んでいるようには見えなかった。
 そして、目当ての時計は机の脇に置いてあった。今は23:56を表示している。

「で、どこだよ」
「ここなんだけど」

 繚の机の上に教科書とノートを広げ、二人で覗きこむ。二人の頭が蛍光灯の影になり、机の上は少しだけ暗い。
 何度も時計を見たら怪しまれる、邦緒はそう思って、時計を極力見ないように心の中で数を数えた。繚は邦緒が指した問題文を読んでいる。そろそろだと思った頃に、考えるふりをして時計が視界に入るように横を見た。
 そのとき時計は43:13を表示していて、すぐに00:00へと切り替わった。奈菜乃に頼まれていなければ気のせいだと流してしまう程度の、ほんの一瞬の変化だった。

「一見わかりにくいけど、落ち着いて読めばわかる文章だよ。出題者はこの構文に気付けるかを見たいんだ」
「あ、うんうん」
「ちゃんと理解できてるか?」
「してるしてる」
「ああそう。それでさあ」

 次の瞬間、繚は叩きつけるように教科書を閉じ、木製の机はくぐもった音を出した。突然の騒音に反射的に邦緒の肩が跳ねる。繚の声のトーンが低くなった。

「どこまで知ってんの?」

 一瞬のうちに肌が粟立ち、途端に動けなくなった。手も足も目線さえも動かせない。蛇に睨まれた蛙とはこのことか。かろうじて動く舌をもつれさせながらも声を出す。

「どこまで、って」
「まあ知らないんならいいけど。他には? 何をやらされてる?」
「何をって、何の話だよ」
「しらばっくれたところでお前ね、全部顔に出てるんだよ。お人好しも大概にしろ、どうせ利用されてるだけだ。これ以上関わり合いになるな」
「りょーちゃん怒ってる?」
「何でだよ」

 邦緒は、利用されているだけという言葉にうろたえなかったわけではない。しかし、それ以上に繚の態度に驚いていた。こんな風に、苛立った口調で矢継ぎ早に言葉を並べるのは彼にしては珍しかった。

「どうせ時計を見てこいって言われたんだろ。どうぞ、ご所望の数字は4313だ。お前には意味がわからないと思うけど。与成さんにもよろしくね。けど、それが終わったらもう絶対に首を突っ込むな」
「いや、お前すげえ勝手なこと言ってるってわかってる?」
「そんなの今更だろ。いいか、どうせ傷つくのはお前だし、俺もお前にほんとのことを知って欲しくない」
「ほんとのことって」
「食い下がんなよ。お前なら俺の言いたいことがわかるだろうし、お前にも知られたくないことがあっただろ」

 邦緒は何でもないふりをしていたが、内心でかなり怖気づいていた。それというのも、繚は邦緒の前で猫かぶりをやめて以降、普段から言葉と態度がきつい男ではあったが、邦緒の弱みを引き合いに出してくるようなことは決してしなかったのだ。
 邦緒は逃げるように自室へ戻った。例の意味のわからない数字を奈菜乃宛てにメールで送ってから、最近のことを思い返す。考えれば考えるほど頭の中のありとあらゆるものがこんがらがってほどけなくなって、不貞腐れて布団を被って寝てしまった。
 繚はというと、ベッドの縁に腰かけて、身動きもせずに青白い蛍光灯に照らされていた。そうして彼は、彼の人生と、邦緒と出会ってからのことを思い出していた。その皮肉さにどうしようもなく乾いた笑いを浮かべて、顔を覆うのだった。




(2014/7/19)


 

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