十一.日曜日:0280






 

 翌日、奈菜乃は一日中部屋に引きこもっていた。珠姫と陸からの遊びの誘いも、体調が悪いと言って断った。事実気分が悪かった。
 むせかえる血の匂いが鼻の奥に染みついて離れない。生ぬるい液体が全身にまとわりつく感覚が消えなくて寒気がした。全身が震える。どうにかして忘れようと思った。料理を作るときのように、牛や豚を切ったのだと思うようにした。
 しかし、忘れるにはあまりに生々しく恐ろしかった。
 浅い呼吸が耳に残っている。吐いた息が交じり合い、自分のものか、彼のものかはわからなかった。しばらくそのままでいると、暗闇の中、彼の喉仏が滑らかに動いたのが間近に見えた。視線をすっと彼の顔に移すと、早くしろと言いたげに眉根を寄せる。動けないでいると、彼は震える彼女の手を取り、やわらかく握りしめて自分の首元へと誘導したのだった。諭すように、落ち着けるように、その手を包んでいた。
 彼がこのとき何と言ったのかは覚えていないし、どうして自分は彼の首元にナイフを突き立てることができたのかなど覚えていたくなかった。
 けれど死の間際、あの彼が、歯を食いしばるのがわかった。声こそあげなかったものの、力の限り手のひらを握り唇を噛み締め、例えそれが人間の本能的なものだとしても、確かに彼は痛みを恐れていた。
 むせ返るような鉄のにおいが辺りに充満していた。返り血が彼女の髪を、肌を、ぬるりと這う。ついさっき、ほんの数秒前まで彼の身体の中を流れていた体液だ。彼女の冷えた身体には、十分に温かくて、身の毛がよだつ。吐き気がこみ上げてきて、こらえることができなかった。
 彼は血溜まりの中にゴム人形のように崩れ伏し、ぴくりとも動かなくなった。繚の死体を前に、彼女は――

 唐突にノックの音が響いて、奈菜乃はびくりと身体を震わせた。ここが自分の部屋であったことを思い出し、ドアを見つめる。それは静かに佇んでいた。何十秒と経たぬうちに、コンコン、と遠慮がちに音が鳴る。
 誰かと話す気分ではなく、無視を決め込もうと思った。再びノックの音が響いたが、知らん振りをした。すると、少しの間があってから「与成さん」と名前を呼ぶ声があった。繚である。

「開けてくれなきゃきみの隠しておきたいことを言いふらすよ」

 先ほどまで心臓を締め上げていたものは一瞬でどこかへ行き、ふつふつと怒りが湧いた。なんて面の皮が厚い男だ、誰のせいでこんなことになっていると思っているのか、と。
 仕方がなかったので奈菜乃は乱暴にドアノブを握り、荒々しくドアを押し開ける。彼の顔にでもぶつかればいいと念を込めながら。
 残念ながらドアはスムーズに開き、繚はいつもの澄まし顔でそこに立っていた。

「おはよう」
「……何しに来たの」
「与成さん、気にしてるんじゃないかと思って」

 彼の飄々とした態度に言葉を失った。見れば、なぜか彼は小さな果物籠を抱えている。その中には、赤々としたりんごとかわいらしいうさぎのぬいぐるみが入っていた。
 しばらく沈黙が落ちる。彼は少し待ってから、部屋を指差した。

「部屋、入れてくれないの」
「嫌。帰って」
「つれないね。俺と与成さんの仲じゃないか」

 ずいぶんと気楽そうに言うものだ。言い返すのもばからしく、不愉快だと睨んでやった。

「嬉しいな、これできみも俺と同じだね。与成さん、俺はこの通りピンピンしてるから、気にしなくていいからね。悩むだけ無駄だよ」

 苛々してたまらなかったから、ドアを閉めてやろうと身体を前に傾ける。それを見た繚は、すかさず自然な動作で奈菜乃との距離を詰めてきて、ぐいと彼女の頭を引き寄せた。奈菜乃は思わず硬直する。そうして耳元で囁かれた。

「誰かに言ったらどうなるかわかってるよね?」

 彼は手を離すと、ゆっくりと目を細めた。
 そうして、見舞いの品のつもりなのか、小さな果物籠を押し付けて行ってしまった。彼の背を呆然と眺めながら、そういえば昨日からご飯を食べていないことを思い出した。



 果物籠を机の上に置いて、ぼんやりとベッドに腰かけた。何かをする気分ではなく、ただただ漫然と空を見つめていた。
 すると、またもやノックの音が響く。どうせ繚だろう。無視するのが一番良い。顔を合わせたって碌なことがない。コンコン、と二度、三度、ノックが繰り返された。立ち去る気配はなく、さすがに苛立ってきて、怒鳴って追い返そうと叩くようにドアを開けた。

「いい加減にしてよ!」

 そこに立っていたのは、黒髪の少年などではなく、珠姫と陸だった。

「いい加減にして、って? どういうことだよ」

 奈菜乃はうろたえた。人違いだと謝ろうとしたが、うまく言葉が出てこない。

「ななちゃん、最近おかしいよ。いっつも暗い顔して、部屋に閉じこもって」
「悩み事があるなら聞くよ」

 珠姫も陸も、真剣な表情だった。逸らすことなく奈菜乃の目を見つめている。
 寮でも学校でも一緒にいるのに、奈菜乃は久しぶりに二人と会ったような気がした。決意が揺らいで、二人に打ち明けてしまおうかと思った。二人なら自分のことを信じてくれるだろう。無力で不甲斐ない自分を赦してくれるだろう。
 しかし、直前に繚に釘を刺されたことが彼女を引き止めた。そうしてここで二人を巻き込んだら、これまでの苦労が水の泡だということを思い出した。
 奈菜乃は、俯きかぶりを振る。

「大丈夫、だから」
「ぜんっぜん大丈夫に見えないから、こうして来てるの! 勝手に入るけどいいでしょ」

 珠姫はそう怒鳴りつけると、言葉通りにずかずかと奈菜乃の部屋に踏み込んできた。陸も後に続く。奈菜乃が止める間もなく、二人は部屋の中心を陣取って座り込んだ。

「それで、何があったか話してよ」

 奈菜乃は棒のように突っ立っていた。今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪い。

「お願いだから出ていってよ。私のこと、気にしなくていいから」
「気にしないわけないだろ」
「私たち、ななちゃんが話してくれるまで出ていかないからね」
「帰ってってば」
「それで出ていくと思ってんの。奈菜乃、何で話せないんだよ」
「だって、だって巻き込めないよ。いじめられてるとか、病気になったとか、そういう話じゃないんだもん。相談なんてできるわけないよ。珠姫ちゃんと陸が、殺されちゃったりしたら、嫌なんだもん」

 物騒な言葉が飛び出したものだから、珠姫と陸はぎょっとして顔を見合わせた。奈菜乃も、口を滑らせてしまったと青い顔が一層青くなる。
 少しの沈黙の後、珠姫が立ち上がる。このまま出ていってしまうかもしれないと思うと、ほっとしたのと同時に泣きたい気持ちになった。奈菜乃は再び固く口を結んで俯く。これ以上口を開いたら、この頼もしい友人たちに泣きついてしまいそうだった。
 次の瞬間、ぱちんという軽い音と共に、頬がじんじんと痛んだ。

「何言ってんの、巻き込んでよ! 一緒に考えさせてよ! ななちゃん頑なすぎ! 」

 喚く珠姫を目の前にして、奈菜乃は立ち尽くした。じわじわと視界が滲む。叩かれた痛みのせいなどではない。

「こいつな、奈菜乃のことずっと心配してたんだよ。話聞いてさ、どうしようもなくて、聞かなかった方がよかったって思ったらあたしたち忘れるからさ。話してもらえないかな。解決はできないかもしれないけど、悩んでること吐き出すだけでスッキリすると思うよ」

 頬の痛みと陸の言葉が、ひとつ降ってくる度に心を濡らし、乾いた土に水をやるように染み込んでいく。奈菜乃は、言葉にならない何かが込み上げてきて、気が付いたら泣いていた。大きな声を上げて、子供のように泣いた。次々に涙が溢れてきてどうにも止められそうになかった。その間、珠姫と陸は黙って彼女をあやしていた。
 涙が落ち着いてきたころ、奈菜乃はぽつり、ぽつりと語り始めたのだった。

 繚が生徒を三人殺めたこと、この町では死んでも生き返るということ、自分も彼に殺されかかったこと、証拠をつかんでやろうと思って、逆に追いつめられたこと、言いふらしたら珠姫と陸を殺すと脅されたこと。ただ、自分が二度も彼を殺してしまったことは、どうしても話せなかった。
 奈菜乃の話を聞いたあと、二人はしばらく無言だった。

「平良くんってそんな人だったんだ……ショック……」
「あたしははじめっからあいつのこと気に食わなかったんだよ。皆のこと騙してるってわけか。吐き気がする」
「ななちゃん、辛かったね。よくがんばったね」

 奈菜乃は言葉に詰まった。本当のことを話さずに、自分だけが被害者のように振舞っていることに罪悪感を抱かずにはいられなかった。
 奈菜乃が何も言わずに俯いたのを、二人は勘違いしたようで、ますます怒りを燃え上がらせる。

「なんとか痛い目見せてやりたいな」
「そんなに好き勝手やってお咎めなしとか納得できないよ」

 奈菜乃はぎょっとして二人を見つめた。

「二人とも、何言ってるの」
「何ってあいつをふんじばって懲らしめてやるんだよ」
「ななちゃんだってこのままでいいなんて思ってないでしょ?」

 事故でさえなく、奈菜乃は自分の意志で彼を手にかけた。彼を止めるのが償いのためだと言うには自分の罪は重すぎる。加えて執拗に奈菜乃を追い詰める繚に、もはや敬意など感じることができなくなっていた。彼を止める理由などなくなってしまったが、それでも、奈菜乃の中の彼を何とかしたいという思いは未だに生きていた。
 一人きりであれば、こんな状況になっても毅然とした態度で自分の信じる道を行けただろう。しかし、もう遅かった。真実を隠しながら周りを巻き込んでしまったことで、彼に関わる理由が変わることに気がつきながらも、奈菜乃は頷いた。

「私、平良くんを止めたい」

 そこにあるのは、償いや敬意などという綺麗なものではない。
 彼と同じところまで引きずり込まれて、さながら翅をむしられた蝶であった。周囲の人たちを巻き込んで、醜い身体を引きずりながら、彼の首を絞めてやろうと躍起になっている。その手足を動かす原動力は、たくさんの失望と復讐の炎である。
 三人は、ああだこうだと言い合って計画を立てた。どうしたら彼に殺人を止めさせられるか、どのようにして彼を断罪するか。三人集まったとしても、高校生が思いつくような計画など底が見えているかもしれない。それでも、最も確実でえげつない方法を探した。
 計画の大筋が決まったころ、辺りはすっかり薄暗くなっていた。




(2014/7/12)


 

 目次