六.土曜日:0009






 

 土曜日だ。気温、湿度共に高くなく爽やかな朝だ。風が草木とじゃれている。奈菜乃は自分の部屋からぼうっとその様子を眺めていた。
 目を覚ましたとき、もしかしたら夢かもしれないなどと淡い期待をしていた。しかし、殴られた頬がじんじんと痛み、夢じゃないと教えてくれている。
 あの後、途中まで繚に送られて寮に帰った。足で蹴る土が、夢の中を歩いているような、ふわふわとした感触だった。部屋に着いたら夕食も食べずに布団の中で丸まった。珠姫と陸が心配して様子を見に来てくれたが、具合が悪いと言って部屋から出なかった。
 ホームルームに出なかったことは、『途中で気分が悪くなって平良くんに保健室に付き添ってもらっていた』と説明した。繚がそう言えと指示したのだった。繚の人助けはよくあることだったし、実際に奈菜乃の具合が悪そうだったので疑われることはなかった。
 腹の虫がぐうと鳴く。あんなことがあってもお腹はすくのかと不思議な気分だった。そろそろ朝食の時間だ。奈菜乃はのっそり立ち上がる。

 食堂は、休日のためみんなゆっくりしているのか平日に比べるとがらんとしていた。だから、テーブルの真ん中に陸と珠姫がいることにはすぐに気がついた。向こうも奈菜乃に気づいたようで、彼女に向かって大きく手を振っている。

「おはよう、ななちゃん。具合良くなった?」
「うん。一晩寝たらだいぶ良くなったよ」

 嘘だった。昨日からずっと違う世界にいるかのような違和感と気持ちの悪さを感じていた。しかし、本当のことなど言えるはずがない。精一杯の笑顔を作った。

「疲れが出たのかもな。あんまり無理するなよ」
「うん、気をつける。二人ともありがとう」

 それから奈菜乃は朝食を取ってきて二人の隣に座った。今日の朝食はご飯とみそ汁と目玉焼きと野菜炒めだった。作り立ての朝食は、ほかほかと湯気が立っている。濃い山吹色の黄身がぷるんとした白身の上で艶やかに揺れていた。
 朝食を取りながら、三人は他愛のない話をした。あの授業がわからないとか、部活がどうだこうだという話だ。だいたい朝食を食べ終えたころ、奈菜乃は少しだけ考えて、昨日の繚の反応から気になっていたことを切り出した。

「ねえ、二人に聞きたいんだけど、有中町の警察署とか交番ってどこにあるか知ってる?」

 陸と珠姫はきょとんとする。

「ケーサツショ? コーバン? 何それ?」
「お店の名前? それとも新しく何かができるの?」

 奈菜乃は、二人がまた自分のことをからかっているのかと思った。
 しかしそれにしては様子がおかしい。嘘をついているようには見えないのだ。冷や汗が流れた。

「ふ、二人とも、また私をからかって遊んでるんでしょ」
「はあ? からかう? なんでだよ」
「ななちゃん何言ってるの? なんかおかしいよ。やっぱりまだ具合悪いの?」

 二人とも怪訝そうに眉を寄せていた。本当にわからないようだった。
 奈菜乃の胸中でくすぶっていた嫌な感覚が、一瞬のうちに全身に広がった。何と答えたらよいのかわからない。追及してくる二人に、曖昧な返事をして話を流した。


 奈菜乃は部屋に帰ってから、転校初日に寮の管理人からもらった地図を広げた。地図は縮尺一万分の一程度で、有中町だけが載っている。
 地図によると、有中町は東西は山で囲まれ、南北には水田が広がっているようだった。中心に市街地があって、少し外れると民家がまばらになり、水田や樹林地、森林が広がる。
 奈菜乃は地図を隅から隅まで眺める。しかし、学校、病院、町役場、消防署、水田、針葉樹――どこを見ても警察署のマークがない。何度地図上を往復しても、睨みつけても、光に透かして見ても、警察署はなかった。


 有中町には警察署や交番がないのかもしれない。隣町にはあるはずだ。奈菜乃はそう思った。しかし、それでは珠姫と陸が『警察署』と『交番』を知らない理由にはならない。
 絶対におかしい。奈菜乃は、知り合いの寮生に手当たり次第に警察について聞いて回った。寮の管理人にも、食堂で働く料理人にも聞いた。

「あの、すみません」
「あら、与成さん。体調はもうよくなった?」
「はい、おかげさまで。ところで一つお尋ねしたいんですが、警察って、ご存知ですよね?」
「ケイサツ? 何かしら? お札の変わった呼び方か何か?」

 尋ねた全員と、同じようなやりとりをした。誰一人、『警察』を知っている人はいなかった。
 奈菜乃は、だんだんと息苦しさを感じるようになってきた。一呼吸する度に肺が違和感で満たされていく。頭痛がする。空気中に毒でも含まれているのではないだろうか。自分にだけ効く特殊な毒だ。
 次第におかしいのは自分の方のような気がしてきた。もしかしたら警察なんていうものは存在しなくて、自分の妄想なのかもしれない。
 そんな考えが浮かんでは、考えようとする心を切り捨てようとし、けれど振り切って思考を取り戻す。それを何度も繰り返した。だって、繚は『警察』を知っていたのだ。奈菜乃がそれを知っていることに反応を示していたのだ。

 ではなぜ、みんなは『警察』を知らないのだろうか。他の地域で育ったのなら必ず身近にあるはずだし、有中町の出身だとしても親や学校が教えないのはおかしい。町外に出たらどこかしらあるはずだし、テレビや新聞ではひっきりなしに事件を報道しているはずだ。
 奈菜乃は、ここまで考えて、ひっかかったものがあった。彼女は、有中町に来てからテレビや新聞といった類は目にしていなかった。寮のどこにもテレビがない。新聞も見当たらない。寮でも学校でも、誰もそんな話を持ち出さなかった。まさかテレビの電波も入らない上に新聞も届かないような町なのだろうか。普通に考えて有り得ない話だ。

 奈菜乃は、これまでにないくらい混乱していた。まったくもって意味がわからなかった。繚は何か知っているような素振りだった。彼に尋ねたら教えてくれるのだろうか。いや、昨日の様子を見る限りでは、有り得ない話だろう。
 昨日の彼の様子を思い返したことで、同時に、忘れかけていた問い掛けが引っ張り出されてきた。

『与成さん、この町をちゃんと歩いたことある? 地図はちゃんと見た? 町の外に行ったことある?』

 そして彼は大ヒント、と称して続けたのだ。

『有中高校の七不思議には元になったものがあるんだ』

 奈菜乃は、もう一度きちんと七不思議を思い返してみた。丁寧に記憶の糸を辿って、あのとき珠姫が話していた内容を思い返す。奈菜乃は怖い話ほど頭に残るたちだ。そのせいでこれまで散々嫌な思いをしてきたが、今だけはそのことに感謝した。
 有中高校の七不思議は、こうだった。

 ―、とある寮室を割り当てられた生徒はある日突然消えてしまう
 二、遅くまで残っていると顔がない生徒に出会い、逃げようとしても階段が見つからない
 三、学校で殺された男子生徒の脳みそのホルマリン漬けが理科実験室にあり、それを壊すと呪われる
 四、四時四十四分に学校内のとある鏡に触ると鏡の中の世界に入り込んでしまい、学校から出られなくなる
 五、創設者の銅像に無礼をすると虫になってしまう
 六、校舎裏の裏山のザクロの木の下に死体を埋めると翌日に生き返る
 七、開かずの部屋があり、そこには人喰いの化物が閉じ込められている

 奈菜乃は、思い出しながら紙に書き留める。しかし、書いてみたところで不気味だと感じただけで、何もわからなかった。
 このまま紙とペンとにらめっこしていても何も変わらない。繚が残したヒントはここにまだ残っている。
 奈菜乃は、外出用の服に着替えるとバッグに財布を突っ込んで立ち上がった。




 奈菜乃は地図を頼りにしながら市街地へと来ていた。
 土曜日の有中町は、平日に比べるとそれなりに賑やかだ。
 自動車がひっきりなしに行き交い、ぽつりぽつりと街路を歩く人がいる。平日だと車道は空いているし歩行者はほとんどいない。
 学校の近くと商業施設周辺はきちんと道が整えられていて、クチナシが道沿いに植えられていた。初夏には無数の白い花が咲き零れるだろう。
 奈菜乃は初めにバスセンターまでやってきた。建物内にはちらほらと人がいる。人々はソファに座ってバスを待っていたり、時刻表を眺めていたりと様々だ。
 奈菜乃は壁に貼り出されている路線図の前へ行くと、バスの路線と行き先を地図を見ながら照らし合わせる。小さな町というだけあって、町内を通っている路線は数えるほどしかない。各バスを行き先ごとにまとめてみると、路線は三種類に分かれた。一つは市街地を回る路線、一つは北側の郊外を、もう一つは南側の郊外を回る路線だ。終着点は、どれも町の中だった。
 もしかして町外へ行くバスを見つけることができていないだけかもしれない、と奈菜乃は窓口の女性に尋ねた。しかし、「町外に行くバスはない」とのことだった。

 それなら、と奈菜乃はバスセンターを出て地図を睨む。有中町は、東西は山で囲まれ、南北には水田が広がっている。山を越えるのは無理だろうが、南か北に歩いて行けばいずれ町外に出られるはずだ。
 歩いていったら時間がかかりすぎるだろう。奈菜乃は自分の自転車を持っていなかったが、寮で自転車を借りることができたはずだ。一旦寮に戻り、それから管理人に話をして自転車を借りた。赤い塗装がされている、いわゆる普通のママチャリだった。
 奈菜乃は地図を確認して、学校から北に向かうことに決めた。出発地点である有中高校は、市街地から少しだけ坂を登った小高い場所にある。木々の隙間から古びた校舎がときたま姿を覗かせていた。
 奈菜乃はペダルを踏み込み、クチナシの隣で自転車を漕ぐ。しばらくは整備された道で気持ちよく風を浴びた。商業施設が集まっている地帯を通り過ぎると、街路樹は姿を消し、色気のない縁石が姿を現した。人はほとんどいなくなり、車の数も減った。周囲には民家が並んでいる。そのまま自転車を漕いでいくと遂に歩道がなくなり、一車線になった。車どころか人っ子ひとりいない。田園風景が開放的に広がり、遠くにはぽつりぽつりと屋敷林が見える。水面は若い緑と青空を映して揺れ、どこまでも続いていた。左右には山脈が連なっている。
 奈菜乃は変わらない風景の中を黙々と漕いだ。左右に水田、上は青空、下は鼠色のアスファルト。進んでも進んでもずっと同じ景色の中にいた。絵画の中に入り込んで抜け出せなくなったのではないかと不安になるくらい、彼女は美しく完成された風景の中にいた。

 この道が永遠に続くのではないかと奈菜乃が思い始めたころ、道路が広くなり、二車線になった。縁石で囲まれた歩道が現れた。民家がちらほらと現れ始める。
 奈菜乃の心臓がドキリと動く。隣の町が近いのかもしれない。疲れて鈍くなった脚に力が入る。ぐんとスピードを上げて自転車を漕いだ。そのまま進んでいくと、だんだんと車と人が増え始める。
 奇妙な感覚に襲われた。胸がつかえて、息をするのが苦しくなる。この景色は見たことがある。
 焦りに任せて思い切り自転車を漕ぎ続けると、街路樹が現れる。クチナシだ。絶望に飲み込まれて、それでも奈菜乃は自転車を漕ぎ続ける。もはや何のために脚を動かしているのかわからなくなっていた。
 他と比べて少し小高くなっている場所に、木々が茂っている。隙間から年季の入った建物がその姿を覗かせていた。奈菜乃は、木々に囲まれた道への入り口がある丁字路で自転車を漕ぐのをやめて空を仰いだ。
 丁字路に『この先有中高校』の看板が立っていた。奈菜乃は、南側から出発地点に戻ってきていた。




 彼女は諦めなかった。いや、正確には、こんな奇妙な町に飲み込まれているなど、信じたくなかった。
 今の彼女からは冷静さというものがすっかり抜け落ちていた。奈菜乃はただ、がむしゃらに目的もなく自転車を漕ぎ続けた。そうして片っ端から町中を見て回った。スーパーマーケット、雑貨屋、本屋、洋風料理店、居酒屋、美容院、町役場、病院、下水処理場、ゴミ処理場、畑、果樹園、民家――さまざまなものが奈菜乃を通りすぎて行った。
 彼女は道行く人には目もくれず、通りがかりの自動車にぶつかりそうになってクラクションを鳴らされ、けれど止まることなくひたすら自転車を漕ぎつつけた。暗い淵から忍び寄る得体のしれない怪異の手を、振り切ろうとしているかのようだった。

 気付いたら彼女は水田に囲まれた細い道にいた。目の前にはこんもりとした小さな林がある。突然田園風景に現れるその林には、奇妙な空気が流れていた。踏み入れると鬱蒼と暗く、ひんやりと冷たい。密集して生育している草木が日光を遮断していた。木の葉のざわめきは、まるで黄泉への来訪を祝う歌のようだ。――ようこそ、ようこそ、さようなら、扉を開けて御覧よ、帰り道など疾うにない、さあお行き、さあお行き。
 数メートル先の右手に、木製の大きな鳥居が立っていた。色はついておらず、木肌が剥き出しになっている。ほとんど朽ちかけていた。その奥には苔むした石段が続いていて、頂上にもう一つ鳥居が立っているのが見えた。近くに古びて字が消えかかっている木製の看板がある。『有中神社』と書かれている。
 奈菜乃は、この神社の名前を聞いたことがあった。陸が有中神社にまつわる怖い話をしていた。たしか、人を食う悪霊が封印されているという話だった気がする。思い出して、一気に緊張が走る。
 同時に、繚の言葉がよみがえった。脈絡がなさすぎて、あの場で話し出すには不自然だったこと。彼は言っていた。

『日本って不思議な国だと思わない? 八百万の神も、仏も、キリスト教の唯一神でさえも、共存しているんだ。この町には、何がいたっけね』

 果たしてこの町には、何がいただろうか。ここの神社は神社と名はついていても祠しかないような場所だ。町には、きちんと人がいて、神道へと導くようなものがあっただろうか。寺は、教会は、あっただろうか。
 奈菜乃は、町の様子をひとつひとつ、じっくり思い返していった。思い返していって、気がついた。神社も、お寺も、教会も、有中町にはなかった。


 これが指し示す意味とは何だろうか、と奈菜乃は考える。
 神道に、仏教に、キリスト教。どれも宗教絡みだ。宗教に共通しているものは、崇める対象、神様だろう、と初めに思いつく。
 しかし、ここには『有中神社』があり、鳥居がある。何が祀られているかは知らないが、鳥居の向こうは神域だ。有中町に神はいる。では寺や神社がないのは、この町に神や仏がいないというわけではないだろう。
 他に共通点はあるだろうか。他に何か見落としていることがあるのではないか。
 彼女はキリスト信者ではなかったので教会には縁がなかった。神社には、お参りに行っていた。寺には年に何度か出かけていた。何の用事だったか。……何の用事だったのか? 思い出せない。

 なにか引っかかったので、よくよく思い出すように自分に言い聞かせた。心の中の暗い深淵に手を伸ばし、世界と自分を遮断して記憶の糸を探る。しばらく闇の中を泳いでいたが、徐々に木魚を叩く音と、お経を読む声が聞こえ始めた。それらが重なってぐわんぐわんと鳴り響き、ろうそくの炎がゆらぐ。菊や百日草、竜胆などが色鮮やかに浮かんでは燃えていく。ひしゃくで水をかけると、炎が消える。誰かが数珠を持って手を合わせて、頭を下げている。何をしているのか。何に対して頭を下げているのか。

 ――それは、先祖の霊に。感謝と供養の心を手向けるのだ。
 そうだ、墓参りだ。お盆やお彼岸の時期に、墓参りに寺に行ったのだ。
 ここで奈菜乃は、はっとした。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。町を見て回ったというのに、一つも疑問など感じなかった。こうして尋常でないほど考えてみて、ようやく辿り着いたのだ。町が覆い隠していた秘密を、ひとつ暴いた。

 有中町には、墓がないのだ。
 死の概念は全員持っている。しかし、墓がない。もちろん死体を放置しているわけではない。神社も寺も教会もなかった。そういえば火葬場もなかった。
 つまり、そういうことなのだ。
 月曜日まで待って欲しいと繚は言った。今は言う通りにしよう。月曜日まで待って、それから、話をしよう。この町の、奇怪で不気味な不思議について。



(2013/9/18)


 

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