一.0030






 

「はじめまして、転校生の与成 奈菜乃(あたなし ななの)です。今日からよろしくお願いします」
「与成はこの町に来たばかりだし寮生活も初めてみたいだから、困っていたら助けてあげてください。席は一番後ろの、空いているあそこだ」

 ここ、有中(ありなか)高校は、有中町という小さな町のたった一つの小さな高校だ。学年に一つのクラスしかなく、一学年四十人前後で全校生徒は百人程度の小規模高校だ。教員の少人数指導体制が功を奏してか生徒の学力はそこそこ高い。
 有中町は山の麓に広がる田舎町で、市街地ではスーパー、雑貨店、飲食店、映画館などある程度の商業発展が見られるが、少し外れに出ると途端に水田と山林に囲まれる。民家はまばらで街灯もろくに立っていないため、夜は不気味なほど暗く、月と星の明かりが頼りになる。まるで時代を遡ったような風景だった。
 交通に関しては、市街地は普通に車を運転できる程度の整備は成されている。しかし市街地から出ると一気に昔じみた景色が広がるのだった。一車線の狭いアスファルトの道路が水田や林を割ってひかれていて、黒い道の上を数時間に一本のバスが思い出したように通り過ぎる。電車なんて通っているわけがない。辺鄙な町だった。
 そんなわけで交通の便がすこぶる悪く、有中高校に通うのは少々骨がいるだろう。そのせいかはわからないが、この高校では全寮制を適用している。学校の敷地内に男女別棟で寮が建てられており、生徒はそこに住むことが義務付けられている。朝晩の食事は出るので、敷地から出ることなく生活を送ることも可能だ。ちなみに部屋は生徒一人一人に狭い個室が割り当てられており、プライバシーは守られている。そんな場所だった。

 転校生の少女、奈菜乃は担任教諭に指定された席へと多少ぎこちなく歩く。その後をクラスメイトの興味津津といったふうな目線が追いかけた。知らない環境へ放り込まれ、注目を浴びているという居心地の悪さを感じつつ、奈菜乃は席についた。木製の机と椅子はひんやりとしていて、騒ぐ心を落ち着かせる。緊張した面持ちで真っ直ぐ黒板を見つめている彼女に、クラスメイトたちは時折視線を寄こしながらささめきあっていた。
 奈菜乃も負けじと教室とクラスメイトを見回した。教室は決して新しくはないが汚くはない。木製の床は古びてはいるがワックス等の手入れのおかげで艶が保たれており、大きめのガラス窓は丁寧に拭いてある。クーラーの類はないが、校舎の外では草木がのびやかに息をしていて涼やかだ。夏場は虫が多そう、などと奈菜乃はぼんやり思う。
 次に視線を人間へと移した。大げさに制服を着崩したり髪を弄ったりしている者は少なく、大概の生徒は真面目そうな印象を受ける。しかし我が道を行く自由奔放な人間もいるようで、目立つ赤のTシャツや下着が見えそうなスカート、痛んだ金髪などが、ちらほらと真っ黒な集団の中から自己主張をしていた。奈菜乃は、そういう目立つ人たちとは関わり合いのないようにしよう、と密かに心に決めた。

 ほとんどの生徒が転校生の存在に落ち着きのない様子を見せていた。しかし、奈菜乃の席の二つ右隣、教室の廊下側の後ろ端に座る男子生徒だけは、つまらなさそうに頬杖をついて何も書かれていない黒板を眺めていた。
 薄暗い廊下の影が彼に覆いかぶさって、一人だけ周囲とは温度が異なり、ひやりと冷たい空気が流れているような気がした。制服は学ランの第一ボタンだけ外されて、中に着ている白いワイシャツがちらりと見える。首筋にかかる艶のある黒髪や軽く横に流した前髪、転校生に見向きもしない黒い瞳からは、潔癖とも高慢ともとれる不思議な雰囲気が滲み出ていた。そんな気だるげな彼の横顔が、やけに網膜に張り付いて離れなかった。

「さて、それじゃあホームルームを終わります」

 教諭がそう宣言して教室を後にする。と、同時に教室内はボールが跳ねるように騒がしくなった。

「ね、ね、奈菜乃ちゃん」

 左隣から声をかけられ、奈菜乃は身体の向きを変える。

「私、天野 珠姫(あまの たまき)って言うの。隣の席だし、これからよろしくね」

 そう言って少女は微笑んだ。ふんわりとした表情に一気に緊張する心が和らぐ。珠姫は少しだけウェーブのかかった細くて柔らかい髪を耳の辺りで二本結びにしていて、小さな白い花の飾りがついたピンで前髪を留めている。かわいらしい顔かたちをしていて、男子に好かれそうな女の子だった。

「うん、よろしく、えっと、天野さん」
「珠姫でいいよう。あ、もしかして奈菜乃ちゃん、突然名前は嫌だった? 名字の方がいい?」

 奈菜乃は慌てて首を振った。珠姫のことを名字で呼んだのは、彼女が女の自分でもドキッとするようなかわいい女の子で、動揺してしまったからだ。

「ならよかった。奈菜乃ちゃん、寮はどこの部屋?」
「確か、217だったはず……」
「そっかあ。私は208なんだ。ちょっと離れてるかな、残念―。でも、217かあ。よかったね」
「よかった?」

 この文脈で使われる言葉としては違和感がある。奈菜乃は眉を潜めた。

「うーん。してもいいのかな、この話」

 そう言って珠姫は周囲をきょろきょろと見回す。教室内は相変わらずざわついていて、ちらちらと転校生の様子を伺っている目線を感じた。もちろん気にせず友達とおしゃべりしている人もいれば、授業の準備をしている人もいる。一限目は現国だ。

「何かあるの? すごく気になる」
「まあいっか。初日から怖がらせちゃいけないかなって思ったんだけど、私が言わなくても誰かが教えるだろうし」

 奈菜乃は何だか嫌な予感がして、やっぱりいいやと断りを入れようかと思ったが、間に合わなかった。

「実はね、女子寮には曰くつきの部屋があるの」

 珠姫は、ワントーン低い声でそう囁いた。やっぱり、怪談だ。奈菜乃は怖い話は苦手だった。迂闊な自分に若干後悔しつつ、うまいことはめてきた珠姫に感服していた。そうしている間にも珠姫の話は続く。

「なんとね……その部屋を割り当てられた人は、姿を消しちゃうのよ」
「す、姿を消す……?」
「うん。ある日突然、いなくなっちゃう。煙みたいに何も残さないで……。それで、だあれもその人のこと覚えてないんだって」

 奈菜乃は、珠姫の話に違和感を覚えて首を傾げた。

「誰も覚えてないの?」
「うん」
「なら、なんでそんな話があるってわかるの?」

 珠姫は目を丸くして奈菜乃を見つめた。次に珠姫が口を開いた時には、先ほどまでのもったいぶった口ぶりから一転して、明るい声色に戻っていた。

「……奈菜乃ちゃん、頭いいっていうか、しっかりしてるねえ」
「どういうこと?」
「私は最初、気付かなくて信じちゃったんだよ。これ、うちの高校の七不思議なの」
「え、七不思議! そんなのあるんだ」
「そ。小学校みたいだよね。学校の敷地内に住むし、周りは自然ばっかりで遊ぶものもないし、いつの間にかできてたんだろうね。ちなみに噂の部屋番号は249だよ」
「……そんな番号ないよね?」
「うん、だから七不思議。実は部屋の番号、話をする人によって違うんだよねえ。私が聞いたのは249だったけどいろいろあるみたい」

 奈菜乃はゆっくり息を吐いた。安堵感と疲労感が押し寄せる。

「なんだ、作り話か……。怖がって損した」
「奈菜乃ちゃん、怖い話嫌い? 七不思議、あと六つあるけどどう?」
「遠慮します! 珠姫ちゃん、けっこういい性格してるね。話の切り出し方だって思わせぶりだったし」
「騙されてくれた?」

 珠姫はそう言ってにこにこと笑っている。奈菜乃は呆れて一言物申そうと口を開いた。すると、ちょうど奈菜乃を邪魔するように、キーンコーンカーンコーン、とスピーカーから質感のない音が流れてきた。授業開始の合図だ。

「授業始まるよ。また後でお話しよ」

 珠姫はそう囁いて、鞄から教科書とノートを取り出す。上手い具合に逃げられてしまった。その数十秒後に、現国の教諭が少し歪んで開閉しにくい扉をガラガラと押し開けて入ってきて、授業が始まった。






 その日最後の授業も無事に乗り越え、学校の掃除とホームルームが終わると教室の空気は一気に解放感に包まれた。今日一日で奈菜乃には珠姫以外にも何人か友人ができ、今後の学校生活をひとりぼっちで過ごすということはなさそうだった。
 今の時間は午後四時過ぎ。ほとんどの生徒が部活へ行くために教室を離れた後で、室内の人影はまばらだ。

「奈菜乃はこの後どうすんの?」

 人懐っこい笑顔で奈菜乃に話しかけてきたのは、昼休みの時間に仲良くなった境陸(さかいりく)だ。陸は人の良さそうな顔をしており、健康的な肌の色や短く切られた髪からは、爽やかで活動的な印象を受ける。彼女は通学用の鞄を背負っており、手には体育袋が握られていた。

「放課後に寮の詳しい説明があるみたいだから、寮に帰らなきゃいけないんだよね」
「ああ、そうなんだ。奈菜乃を陸上部の見学に誘おうかと思ってたのに」
「陸ちゃんって陸上部なんだ」
「そうそう、陸だけに陸上部、なーんちゃって。あとちゃん付けいらねーって」

 陸はころころと表情を変える。見ていて飽きなさそうだ。

「うん、わかった、陸。早く何の部活にするか決めなきゃなあ」
「陸上部、よろしくな! まあ奈菜乃って陸上よりバレーとかテニスとかやってそうだけど」

 陸は朗らかに笑って、じゃあな、気をつけて帰れよ、と手を振る。部活の集合時間があるらしく、時計を気にしながら走って教室を出て行った。珠姫は既に部活へ行ってしまった後だ。奈菜乃はもう一度時計を見る。四時半に女子寮の玄関付近の受付に来てほしいということだったので、今から一度自分の部屋に戻って荷物を置いてから行けば丁度いいくらいだろう。彼女は鞄を肩にかけ、教室から出て寮へと向かった。

 学生寮は敷地の隅に建っており、男子寮と女子寮はそれぞれ離れた位置にある。どちらの寮も、校舎と同様に年季は入っているが手入れが行き届いており清潔さが感じられる建物だ。
 女子寮の玄関はがらんとしていた。電気はまだついていなかったが、ガラス窓から自然光が侵入し、薄い青緑色の玄関タイルをぼんやりと浮かび上がらせていた。帰宅部の生徒の姿があってもおかしくはないが、今は人気がなくしんとしている。奈菜乃は靴を脱いで下足置き場に仕舞い、代わりにスリッパを履くと薄暗い廊下を歩いた。ぱたぱたと足音が廊下に反響する。
 奈菜乃にあてがわれた217は、女子寮二階の奥にある。彼女は『217』のプレートがかけられたドアの前で立ち止まり、鍵を差し込んで冷たいドアノブを回した。そうして中に入ると独特のこもったにおいが鼻をつく。部屋は小ぢんまりとしていた。机やベッド、本棚、時計等の雑貨が備え付けられていて、特に何かを持ちこまずともとりあえずは生活できるような部屋になっていた。
 時間がなかったので、奈菜乃は鞄を床の上に放り投げるとすぐに部屋を出た。急ぎ足で玄関まで戻るが、まだ人影はない。時計を確認すると二十三分で、どうやら約束の時間には間に合ったようだ。
 それは良いが、暇だ。人を待つ時間ほど暇なものはない。奈菜乃は日が傾き橙色に染まり始めた世界に身を委ね、少しの間ぼうっとしていた。

「ごめんなさい、待ったかしら?」

 しばらくすると寮の管理人が事務室からやってきた。品が良くしっかりした印象を受ける女性だった。奈菜乃が挨拶をすると、管理人は穏やかに挨拶を返した。促されるままに事務室へ入り、一通り施設の使い方や時間、緊急時について等の説明を受けた。その後は彼女から解説を受けながら寮の施設を一回りし、解放されたのは五時半前だった。

「夕食は七時からだから、しばらく時間を潰していてね」

 そういえば、と奈菜乃は文房具が足りていなかったことを思い出す。丁度赤いペンが切れていたのだった。

「あの、近くに文房具屋さんってありますか?」
「ええ、あるわよ」

 そう言って管理人は一度事務室へと戻り、地図を手にして奈菜乃の元へと戻ってきた。そして管理人は文房具屋までの道のりについて説明をし、町の地図を奈菜乃に与えてくれた。まさかこんなに丁寧に対応してもらえるとは思っていなかった奈菜乃は、ひとしきり感謝を述べて寮を出る。親切でしっかりした管理人で安心したと、奈菜乃は上機嫌で歩いていた。




 校門近くまで歩くと、花壇の傍にぽつんと人影が見えた。どうやら花に水をやっているらしい。弧を描いて落ちる水の粒はきらきらと赤く輝く。葉も花も土も、夕焼けで真っ赤に染まっていた。緑化委員会や園芸部の人だろうか。それにしては人影は一つしか見えず、部活や委員会の活動にしては不自然だ。もしかしてボランティアだろうか。そうならばなかなかの人格者だ。一体どんな人だろう、と目を凝らして歩いていたら、見覚えのある顔に思わず声をあげてしまった。

「あ」

 奈菜乃の声に反応して、男子生徒が顔を上げた。同じクラスの、彼女の二つ右隣りの男子生徒だった。

「与成さん」

 奈菜乃は気まずそうに口をもごもごさせた。まだ話したこともなかったから声をかけるつもりなんて毛頭なかったし、そもそも名前さえまだちゃんと把握していない。朝のホームルームのときの、一人だけ違うものを見ているような雰囲気が印象的で顔を覚えてしまっただけだ。そんな奈菜乃の様子を汲み取ってか、男子生徒は目を細めて言った。

「転校初日で大変でしょう。俺は平良 繚(ひら めぐる)、よろしくね」
「平良くん、こちらこそよろしく」

 ひらめぐる、奈菜乃は心の中で復唱して彼の名前を刻みつけた。

「与成さん、学校に馴染めそう?」
「うん、大丈夫だと思う」
「ならよかった。何かあったら言ってくれれば、俺でよかったら力になるから」

 奈菜乃は目を丸くした。素直に感心したのだ。転校生に対してこんな言葉をすらりと言える高校生はそうそういない。

「ありがとう。平良くんって大人っぽいね。なんていうか、他の人とは雰囲気が違う」
「そう?」

 奈菜乃が頷くと、平良は綺麗に笑った。夕焼けが反射して、なんだか人形のようだった。

「与成さん、これから外に行くの?」
「文房具屋さんに行こうと思って」
「へえ。最近事故とか事件とか多いみたいだから気をつけてね。暗くなる前に戻った方が良いよ」

 真面目な顔をして言う平良に、奈菜乃はありがとう、と再び礼を言って校門を出た。数歩歩いて振り返ると、平良は花壇の水やり作業に戻っていた。不気味なほどに真っ赤な夕暮れの中、花壇の傍でぽつんと一人きり、じょうろをかざす平良の姿がやはり網膜に焼きついた。





 有中高校はなだらかな坂の上にある。学校と町を行き来するその坂は、木の葉が茂って緑色の光が降り注ぐアスファルトの一本道だ。全寮制であるため生徒の往来は一般的な学校に比べて少ない。現に、今この坂を歩いているのは奈菜乃だけだった。
 橙色に浸食された木々のざわめきを潜り抜けると、二車線の道路へと出た。車が奈菜乃の目の前を駆け抜けていく。街路樹に飾られた歩道をゆく人はまばらだが、誰もが脚を速めていた。そんなに急いでどこへ行こうというのだろう。早く帰りたいのだろうか。それとも、夜には化物が出るとでもいうのだろうか。
 奈菜乃は人の流れに逆らってゆっくりと歩き出した。寮の管理人からもらった地図によると、文房具屋は道路を渡った向こう側で、すぐ近くにあるらしい。歩きながら、奈菜乃は繚の言葉を思い出していた。事故や事件が多いから、暗くなる前に戻った方がいい。確かに慣れない町を夜中に独り歩きするのはいささか不安だ。けれど、店は近いし買うものも決まっている。夜になる前に問題なく帰れるはずだ。

 今日は夕日がやけに濃い赤色をしている。町全体に、動脈血の色をしたフィルターがかかっているようだった。街路樹も、立ち並ぶ店も、道路も車も人もチリも埃も、みんな鮮やかな赤に抱かれていた。自然と脚が速まる、心をざわつかせるような夕暮れだった。

 奈菜乃は横断歩道の前で立ち止まる。信号は赤だ。ここでも、赤。赤信号がこっちを見ている。赤信号の中から覗く人と目が合った。今日はやけにこの色が目について、奈菜乃は段々と嫌になってきた。早く夜になればいい。紺色の闇がこの不安を追い出してしまえばいいのに。今は心底宵闇の色が恋しかった。
 信号がぱっと青色に切り替わる。ほっと息が漏れて、すぐさま歩き出した。早く渡りきってしまおう。赤色が顔を覗かせないうちに。
 不意に、甲高い悲鳴と耳障りなブレーキ音が届いた。何事だろうと振り返ろうとして、気がついた。目の前に、猛進してくる自動車があった。ワインレッドの車体がギラギラと襲いかかってくる。脚を動かす暇も悲鳴を上げる暇もなかった。次の瞬間には嫌な鈍い音が聞こえ、強く地面に叩きつけられていた。あっという間に視界が鮮血に染まった。地獄にいるような叫び声があちこちで上がって、ぐるぐると行き交っている。汚い音の群衆が、がんがんと脳内に木霊して、それっきりだった。


(2013/8/7)


 

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